クラシックの悦楽 願いをかなえる名曲をめぐる旅

青少年のための明るいクラシック学入門

 

目次
    クラシックでしあわせになる 願いをかなえる名曲と出会う

 

 

はじめに

 


第1章 クラシック音楽って誤解されてるかも

クラシックを楽しむのに準備も知識もいらない
クラシックってほんとうにわかりにくいの?
世間でクラシックと思われている音楽ほど退屈
クラシックに難しいイメージがつきまとう理由
クラシックは高級ではなく一流である


第2章 クラシックが心と体に与えるいい効果

いつも気分よく過ごせる
毎日が一人カフェになる
「エア・クラシック」ならいつでもどこでも音楽が聴ける
音楽とともに目の前に映像がひろがる
健康やアンチエイジングに効果がある
他にはない深い感動とかつてないエクスタシーを得られる


第3章 クラシックで人づきあいと世界の見えかたが変わる

人間関係が改善される
クラシックが好きなだけで多くの人と親しくなれる
見慣れたはずの風景と世界が一変する
変わり続ける自分を意識できる
クラシックで悟ることさえできる
自分の人生の優れた演出家になれる
自分をうまく盛り上げていくのが巧くなる


第4章 クラシックで思考・感情・性格を自由にあやつる

クラシックは論理的な思考をみがく
クラシックは知的欲求を刺激する
やる気を高められる
クラシックはどんな絶望にも寄り添ってくれる
------ベートーヴェンピアノソナタ第三十一番」
挫折からの立ち直りかたを教えてくれる
何ごとにも飽きっぽい性格が変わる


第5章 クラシックが大好きになる出会い方

王道「NHK‐FM」
ラジオでクラシックを知る快楽
名曲との出会いは恋人との出会いに通じる
クラシックを聴きはじめるのはまさに今
クラシックのCDはまず図書館で借りる
ライナーノーツを愛読する
カフェ・クラシックを愉しむ

第6章 なかなか知られていない演奏会の楽しみ方

演奏会の醍醐味
「名曲を見る」愉しみ
音が自分を中心に廻りだす
------マーラー交響曲第8番 千人の交響曲
縁に導かれて演奏会へ行く
シークレット・イベント「ゲネプロ」に参加する


第7章 クラシックが大好きになる聴き方

ちょっと気になる作曲家の全作品を聴いてみる
一つの曲を指揮者、演奏家で聴きくらべをする
クラシックは聴かずに「流す」のもよい
自分が聴き続けられる仕組みを見つけよう
紙もペンも何も使わず自分だけのクラシック全集を作成する


第8章 大好きなクラシックを探しに行こう

インテリジェント・シャッフルで聴くクラシック
クラシックは「本日のランチ」
そしてCDショップへ
店員さんとのコミュニケーションを楽しむ
季節でクラシックを聴きわける------月別の曲名紹介
クラシックは東北の旅先で聴く------観光地別の曲名紹介
心が欲する曲に耳を傾ける

 


第9章 クラシックの会話を楽しもう

「クラシックよく聴きます」で気をつけること
「クラシックが好き」は「好きでも嫌いでもない」ということ
何でも知っているという態度は究極のタブー
気楽に話してもよいと思えたとき


第一〇章 クラシックが引き寄せる人との出会い

クラシック好きな人がいないという壁
出会いを引き寄せる心の対処法
クラシックを語り合える人はどこにいる?
ネットを使わずにクラシック好きな人を見つけるには
意外なところに情報は隠れている
私が週7人のクラシック好きな女性と知り合えた理由
日本各地の女性とクラシックについて語りあった数年間
クラシックが縁で贈りあったギフト


第十一章 ウェディング・クラシックで人生最高の一瞬を

はたして著者はクラシック好きな女性と結婚できたか
生涯に一度の結婚式だからこそクラシックを
教会への入場あるいは挙式後のフラワーシャワー 
------「ワーグナー オペラ「ローエングリン」より《婚礼の合唱》」
迎賓
------「エルガー 行進曲《威風堂々》 第1番、第2番、第3番、第4番」
披露宴会場への新郎新婦入場
------「メンデルスゾーン 劇音楽「真夏の夜の夢」より《結婚行進曲》」
乾杯の合図から歓談へ
------「ヘンデル 《王宮の花火の音楽》より序曲」
ケーキ入刀からケーキセレモニー
------「ヴェルディ 歌劇「アイ―ダ」より《エジプトとこの聖なる地を》」
中座
------「グリーグ 《ホルベルク組曲》より前奏曲
結びの乾杯から花火
------「ストラヴィンスキー バレエ組曲火の鳥》より終曲」

第十二章 名曲から自分へのメッセージを読み解く

全曲を通してたった一打のシンバルの謎
------ドヴォルザーク交響曲第9番 新世界より」 
待つことの意味
演奏せずに演奏に参加する
誰一人として欠けてよい人はいない

いま すぐ ここでしあわせになる
------ベートーヴェン交響曲第9番 合唱付き」 
生きることは「戦い」でしょうか?
生きることは「快楽」でしょうか?
生きることは「安らぎ」でしょうか?
歓べ! もっと歓べ!
「第九」をもっとも感動的に聴くには

自身の体験を音楽で綴る
------「マーラー 交響曲第一番 巨人」
音楽はすべてを語る
音楽とともに生きる
クラシックでしあわせになる

 


おわりに

 


第1章 クラシック音楽って誤解されてるかも

クラシックを楽しむのに準備も知識もいらない

 ここで「クラシック音楽を辞書で調べると」、というありきたりな序文は控えたいと思います。このブログではクラシックを、あなたがたが各々、こんなものかなとイメージする音楽、と定義することにします。なぜならあらゆる芸術は本来、誰のものでもない、きわめて私的な、あなただけのものだから。つまりこのブログの読者だけクラシック音楽が存在することになります。
もっとも研究者にとっては、ルネサンスバロック、古典派、後期ロマン派などの時代区分や、時代背景などの知識は、客観的に考証するうえでどうしても必要です。しかしこのブログを読まれるみなさんにとって、それはあってもなくてもどちらでもよいのです。みなさんは、「モーツァルトは私にとってクラシック音楽ではない」とも言えますし、「あんなものは音楽でさえない」と言いきってもかまいません。重要なのは、知識や理屈ばかりならべる人の意見ではなく、あなた自身の耳で音楽を聴き、作品のすばらしさや、感動を発見することなのです。本来、いつの時代でも芸術とはそんなものでした。長いあいだ無名だった天才画家の作品を最初に評価するのが、名もない一般のコレクターだったりするのは、よくあることです。


クラシックってほんとうわかりにくいの?

 このように言うと、クラシックがわかりにくい、というのも成り立たなくなります。自分がステキだなとか、美しいなと心から思える音楽だけを聴けばいいだけの話なのですから。ただ、その音楽との出会い方や聴き方がなかなか知られていないから、世間でクラシックと思われている音楽、つまり不特定多数の誰もがクラシックとして疑わない音楽をちょっと耳にしただけで、

眠くなりそうだな。
飽きそうだな。
つまらなそうだな。
長そうだな。
暗いイメージだな。

 となるわけです。

 


世間でクラシックと思われている音楽ほど退屈

 そもそも、誰もがイメージするクラシック音楽というのは、昔はなかった筈です。なぜならクラシック=「古い」という意味ですから、もちろん作曲当初はクラシックではなく、今どきのJポップと同じような感覚で、宮廷や作曲家のサロンなどで演奏されていたことでしょう。その当時は貴族や上流階級の趣味でしたが、後に大衆の娯楽となり、コンサートホールなどで演奏されていました。そして後の音楽にジャズやポピュラーなど様々なジャンルが生まれると、レコード会社はジャンル分けをして、楽器だけで演奏される純器楽曲や、声だけによる声楽曲だけを専門に扱うレーベルが登場します。そこまではよいのですが、メディアの普及とともに、いつしかこういうものがクラシック音楽だといったイメージが出来上がり、そんなイメージのなかでの「名曲」は、概していつも同じような、退屈な、つまらないものになりました。


クラシックに難しいイメージがつきまとう理由

 くわえて私たちは小学校や中学校の音楽室で、人生で初めてクラシックの作曲家と対面します。それは禁欲的な表情をたたえるバッハや、羽根ペンを持つベートーヴェンのいかめしい肖像画です。これにより、私たちのクラシック音楽のイメージに、「ちょっと難しそう」というラインナップも加わります。ベートーヴェン肖像画は、他にもいくつか存在していて、なかにはもっと素朴な顔立ちの、近所の人懐っこそうなお兄ちゃんみたいなものもあり、そんなポートレイトを最初に見ていたら、彼にもっと人間くさいイメージを持つでしょう? もっともそんな人間くさいイメージこそ、天才ベートーヴェンを真に理解するには必要なものなのです。
 クラシック音楽が難しいと思われるもう一つの理由は、それがヨーロッパでうまれ、発達した異文化であり、これまでわが国で販売されたレコードやCDの解説書が、原盤の翻訳であることも一因かもしれません。そのせいかかつての音楽評論も、読みなれていない人にとってはややとっつきにくい翻訳体で書かれ、とても一般向けとはいえないものでした。衒学的な文章は、わかる人だけわかる特殊なものになったのだと思われます。ただ、私も含めてそういう解説や文章が、何にもまして好きでたまらない人も、少なからずいるわけですが。


クラシックは高級ではなく一流である

 そんなこんなで、クラシック音楽は「知的階級の趣味」、「高級なもの」というイメージが次々にくっついていきました。しかし曲がつくられた背景や、作曲家について深く知れば知るほど、その作品の美しさはもちろん、人間の尊厳や気高さとともに、あくなき欲とか美への執着、けがらわしさ、俗っぽさ、哀れさ、醜さのようなものが見えてきます。それにつれてクラシック音楽というものが、お金さえ出せば手に入る高級ブランド品ではなく、聴く人にそれを理解するだけの人間的な深さを求めてくる、つまり作品のほうで鑑賞する人を選ぶ、超一流の芸術であることがわかってきます。
 クラシックはけっして高級なものではありません。演奏会にTシャツとジーパン、ビーチサンダルで行っても別に問題はないのです。でもせっかく行くのなら、一流の作曲家、指揮者、そしてオーケストラと対峙する心地よい緊張と敬意をもって、ちょっとドレスアップして、時空を超えて現実を忘れさせてくれるとびきり贅沢なひとときに身をゆだね、愉しむことです。
 このブログではこれから、クラシックをより愉しむための具体的な方法について、詳しくお話していきますが、その前にクラシックを好きになるとこんないいことがあるというのを、みなさんに紹介しましょう。

第2章 クラシックが心と体に与えるいい効果

いつも気分よく過ごせる

 クラシックに限らず、いい音楽を聴くと、心身に旋律が沁みこんで、心地よい余韻をしばらく楽しめます。それは例えば何かおいしいものを食べた後に、その味わいがしばらく口のなかに残っていたり、またお酒を飲まれる人なら、いいウィスキーやワインを口にした後に、翌日になってもその芳香が鼻腔の奥に漂っているのと似ています。味覚だけではなく、印象的なCMソングを聴いただけで、ふとメロディがそのまま鼻歌になって出たりすることがありますね。
また、ふとした瞬間に記憶のインデックスからジュークボックスのように曲が流れることがあります。そんなとき私はそのとき頭に浮かんだ音楽によって、紅茶にしようか、珈琲にしようか、緑茶にしようか決めたりもします。自分だけの楽しみ方を見つけましょう。
 いつも心地よく過ごしていることで、いい人や運を引き寄せるのです。


毎日が一人カフェになる

もし願いがかなうなら、あなたは毎日何をして過ごしたいですか? 例えば朝からカフェへ行って、大好きなココナツ・ラテを味わいながらゆっくりまったりしたいという人もいるかもしれません。
クラシックを聴くようになると、これが可能になります。何も仮病をつかったり同僚にウソをついて仕事を休んだり、仕事を辞めたりしなくても、これまでと同じ生活を続けながら、一人でカフェで過ごすときに近い気持ちを楽しむことができるのです。
会社勤めをしている人なら、たいていは仕事中に好きな音楽を聴くことはできませんね。でも朝の通勤のときに大好きなクラシックを聴くだけで、個人差はありますが、その旋律はまる一日くらいずっと耳の奥に残って鳴り響き続けます。業務がそれほど忙しくないようなときは、落ちついた曲を聴いてから出勤すると、殺伐としたオフィスで一人だけカフェにいるような、一人カフェへと変わります。誰もあなたが音楽を聴いているとは思いません。ただどことなくリラックスしているなと見えるだけです。これの応用として、昼休時間にランチをしながらずっとクラシックを聴いていると、午後のひとときはその余韻でアフタヌーンティーの時間になります。デスクにはぜひ紅茶を用意しましょう。
また私の経験から、テンポのよい曲調のものなら、リズムに乗って仕事の能率も捗ります。パソコンで文書や企画書を書く予定があるときなどは、超絶技巧のピアノ曲などを聴いて出勤すると、タイピングのスピードが劇的に上がりますので、お試しください。


「エア・クラシック」ならいつでもどこでも音楽が聴ける

 これはちょっと中級編なのですが、クラシックをかなり聴きこむと、好きな音楽を好きなときに好きなだけ「頭のなかだけで再生して聴く」ことができるようになります。頭のなかから音楽をダウンロードする感覚ですが、再生までの時間は一秒もかかりません。それを私は、じっさいに楽器を持たなくてもギターを弾く気分を味わえる「エア・ギター」ならぬ、「エア・クラシック」と自分一人で命名しています。頭のなかだけで音楽を再生できるのは、クラシックに限ったことではありませんが、他のジャンルの曲よりも、クラシックはより頭のなかで再生しやすく、再生したときの心地よさも格段に違うように思います。これは記憶のメカニズムも関係しているのではないかと私は思っています。記憶というものは、関連する情報と情報とが結びついたもので、その結びつきが強く、セットで憶えられるものほど記憶が定着しやすくなります。一つの旋律を奏でるのにたくさんの音や楽器がもちいられるクラシックは、たがいの音や楽器がおのおの有機的に結びつき、関連しあっているため、記憶としてよりリアルに定着するのかもしれません。
じっさいに音楽を聴きたくても聴けないようなとき、仕事の合間や、ちょっとした空き時間などにこのエア・クラシックができるようになると、いつでもどこでも好きなだけ音楽が聴けるようになります。


音楽とともに目の前に映像がひろがる

今、ここでお話しているあいだもずっと、私の頭のなかには、十九世紀後半のある作曲家の楽曲が、じっさいにオーディオ機器で再生しているのとほぼ変わらないリアルさで流れています。しかも弦楽器、管楽器、打楽器など、一〇〇人ほどで演奏しているすべてのパートもそれぞれはっきりと、立体的な厚みをもって浮かびあがり、それに意識をフォーカスすると、ホログラム(三次元立体画像)のように、チャンネルがオーケストラの映像に切り替わります。この映像をうまく再生する、つまり音楽と映像をうまくシンクロさせるには、クラシックの番組を多く見たり、演奏会へ何度も通って、いつも聴いている曲がどのように演奏されているのかを知ることも必要です。
人間の脳は、想像したものと現実のものとを区別しにくいといいますが、このようにして私はいつも夢のような時間を生きているのです。


健康やアンチエイジングに効果がある

 クラシックを聴くと、ゆったりできるとか、胎教にいいというのはみなさんもご存知ですね。動植物の成育にもいい影響を及ぼすので、以前からハウス栽培や畜産農家でもクラシック音楽を流して、野菜を大きく成長させるとか、ニワトリにたくさん卵を産ませるとか、牛の乳の出をよくするとか、いい肉にするといった話をよく聞きます。クラシック音楽にはより自然界の音に近い特有のゆらぎがあるとか、癒しのリズムがあるとか報告されていますが、それが生体レベルで作用して、ストレスケアの効果があるのでしょう。人類が数百年ものあいだクラシック音楽を聴き続けたのは、知らず知らずのうちに私たちの体が欲していたせいもあるのかもしれません。
ストレスが緩和されると、毎日を気分よく過ごすことができます。すると私たちの免疫機能も高まり、いい体調、コンディションを維持することもできますし、病気になりにくい体がつくられ、抗加齢、アンチエイジングにも効果があります。
私はこれまでクラシックに関わる多くの人と出会う機会に恵まれてきましたが、みなさん例外なくいきいきとして、実年齢より確実に一〇歳から二〇歳は若く見えます。世界の第一線で活躍する指揮者や評論家に高齢の人が多いのも、たまたまではないように思えます。これまでは、年の割りに若いとか、長生きする人は、たまたまそうだと考えられていました。しかし現在ではさまざまな分野から検証がなされ、アンチエイジングはサイエンスとなり、狙える時代になりました。
かつては「しあわせである」こともたまたまだと考えられていましたが、現在はしあわせになるための方法論がかなり確立してきて、よりサイエンスに近くなり、狙える時代になりました。同じく「クラシックが好きである」ことも、これまでのように特定の人の特殊な趣味としてあきらめるのではなく、あえて好きになれる方法を、本書で皆さんに提案していくものであります。

 

 

 

他にはない深い感動とかつてないエクスタシーを得られる

 クラシック音楽でしか得られない独特の深い感動というものがあります。ときにそれは感動を超えて、恍惚やエクスタシーに近いものとなり、感情を浄化するように思われることもあります。以前、私がバッハの作曲した『マタイ受難曲』という作品を、名演奏家による古い録音で聴いたとき、聴衆のすすり泣きが聴こえてきたことがありました。この他にも、画家などがよく創作への着想を得るためや、インスピレーションを高めるために、アトリエでクラシック音楽をかけながら制作する姿なども珍しくありません。身近な人の例では、私の知りあいに音楽教師がいるのですが、彼女は「クラシックを聴くと興奮する」と言っていました。クラシック音楽には「眠くなる」というイメージがありますが、好きになると逆にカフェインのいらない眠気覚ましになるので、カフェインを摂らない人にはおすすめです。


第3章 クラシックで人づきあいと世界の見えかたが変わる

人間関係が改善される

 ストレスが緩和されることで、感情も安定しますが、クラシック音楽には、曲によってただ聴いているだけで感情を安定させるものがあります。私たちは感情にムラがあってすぐ怒ったりする人より、いつもおだやかで明るい人と一緒にいたいものです。人のもつ波動は相手にいともかんたんに伝わりますから、引き寄せの法則で、感情が不安定でつねに文句や悪口ばかり言っている人には同じような人が集まり、感情が安定していて楽しいことや人のよいところを見つけられる人もまた同じような人を引き寄せます。そしてそれぞれのグループは、互いに関わることはありません。感情が安定すれば自分がしあわせになるだけでなく、まわりの人をもしあわせにし、結果として人に好かれ、人間関係がよくなり、毎日の生活や仕事にいい影響を及ぼすといった、よい循環が生まれます。


クラシックが好きなだけで多くの人と親しくなれる

私は二十歳の頃から、クラシック音楽が好きだというだけで、世代の違う多くの日本人や、外国人と親しくさせてもらいました。世界中で知られている西洋音楽であるクラシックは、いわば世界共通の言語ともいえます。極端な話、好きな作曲家の名前を英語で発音さえできれば、「私は○○が好き」、「あなたも(は)○○が好き」といったように、そこでお互いが笑顔になれる会話が成り立ってしまうのです。これまで私は幾人かの外国人の女性とクラシックの話題がもとで親しくなり、お付き合いするまでになりました。また日本人の女性の多くは、幼少の頃から何かの楽器を習っていたり、吹奏楽部にいたりするので、クラシックにも少なからず興味があり、知っている曲や好きな曲が一つや二つあるはずです。彼女たちの中には、もっとクラシックを知りたいとか、好きになりたい、楽器を再開したい、始めたいという人も少なからずいて、私はいつも「何かいい曲があったら教えて」と言われていました。あるときはクラシックを通じて一週間に7人の女性と知り合ったこともありました。それ以降もいくつもの出会いを経験しましたが、このあたりの話は長くなりますので、章を変えてお話したいと思います。クラシックが好きというだけで、いい印象を与えられたこともあるのかもしれません。


見慣れたはずの風景と世界が一変する

私はクラシック以外にもあらゆる音楽を聴きますが、クラシックというジャンルは、日頃自分が見慣れている風景、世界といったものを「異化」する作用がとくにつよい音楽ではないかと思っています。例えばみなさんは、とても優れた小説を読んだり、絵画を見た直後に、まわりの景色や世界がこれまでとは違う意味を持つような感じ、以前とはどこか違って見えるようなことはありませんか? 私たちがいつも見ているものは、自分というフィルターを通して見ています。そのフィルターには、それまでの人生や生活のなかで積もった自分だけのものの見方、独特な主観、教え込まれた概念、さらにこうでなくてはならない、こうすべきといった役割など、たくさんの埃がついています。そんなものを通して見ているために、ものごとをありのままに見ることができなくなっているのです。ところがある種の芸術にふれると、ものの見方がその作品の作者である小説家や画家、作曲家の主観や概念、感性の影響を受けて、まるで道端で埃まみれで目立たなかった花が雨を受けていきいきと見えるように、日常の風景が本来のあざやかさを取り戻します。そんなことが私には音楽、とくにクラシックを聴いた後にひんぱんに起こります。そしていつもの風景であっても、クラシックを聴きながら見ることで、あたかも初めて見るような景色だったり、これまで見たこともないような景色として立ち現われてくるのです。
クラシックを聴くと、見える世界がどこまでも素晴しいものに見えてきます。


変わり続ける自分を意識できる

長いあいだクラシックに親しんでいると、自分の変化というものが、他のジャンルの音楽を聴いたときとは比べものにならないくらい際立ってわかります。例えばかなり昔に、あるクラシックの曲を耳にしていたとします。そのときはまるで興味がなく、それからずっと長いあいだ忘れていたのに、何かのきっかけで耳にしたら、あたかも初めて耳にする曲に思えたり、それどころかとんでもない名曲に聴こえるということが頻繁に起こります。さらには、子どもの頃に聴いた感動と、大人になってから聴いた感動の、質そのものが変わることもあります。これはいったいどういうことでしょうか。
クラシックの音楽は、何百年に一人という天才が、生涯をかけて創作した膨大な作品群のなかの、さらに選ばれたほんの一部であったり、何度も繰り返して改稿、つまり書き直しをして現在知られる形になっています。気の遠くなる努力のすえに、あらゆる叡智と技法を結集させた作品でもあります。くわえてとてつもなく精緻に作りこまれているわけですから、よほどの人であっても、一度や二度聴いただけでその曲の持つ奥行の深さと魅力のすべてを知るのは、とうてい不可能なのです。私個人の体験でいえば、子どもの頃に聴いたときと、大人になってから聴いたときのギャップが著しく大きな音楽として、少しだけ例をあげれば、ハイドンピアノソナタ集や、ブルックナーの九つの交響曲があります。子どもの頃に聴いたときと、大人になってから聴いたときの感動の質そのものが著しく変わる音楽としては、ベートーヴェンの後期に作曲されたピアノソナタ集などがあります。
音楽にかぎらず、私たちはあらゆるものを、ある側面からだけ好きとか嫌いとか決めつけてしまいます。年月を経て、自らの感覚や感性、ものごとへの認識のし方などが成熟したり、変化することで、かつてわからなかったもの、理解できなかったものの良さや、作品のもつ魅力をあらためて知るのです。そしてそのとき、瞬間ごとに変わり続けている自分に気づきます。


クラシックで悟ることさえできる

そのようにクラシック音楽を聴き続けると、自分が変わり続けているのをより実感できるのですが、医学では私たちがどれくらい変化しているか、もっと詳しく教えてくれます。人体では一分間に二億個の細胞が死滅し、同時に同じ数の細胞が誕生しているそうです。一日にすると3000憶個の細胞が死んでいくことになりますが、同じ数が生まれているから、何も変わっていないように感じられるのです。その様子を、海辺の風景に例えた学者もいます。砂浜にあるおびただしい数の砂粒は、風や波でつねに動き続けているのに、見た目には何も変わらないように見えますね。
私たちが気づかないうちに、心と体がうみだす生命というシステムは、一瞬のうちに生と滅がすさまじい速さで入れ替わります。仏教でも瞬間、瞬間ですべては新しいものに変わると教えていますが、私たちの体をつくる60兆個の細胞も、それを支える心も、瞬間、瞬間で入れ替わり、まったく別のものになっているのです。私たちの思考を模倣したコンピュータも、論理を数字にした「ブール代数」を使い、0と1だけを高速で入れ替えることで情報を処理していて、そのあまりの速さにほとんど静止しているように見えます。おびただしい数の小さなものが高速で入れ替わるため、私たちはそれを川とか光のように、遠目ではほとんど変わらないように認識しているのです。
クラシックが他のジャンルと違うのは、ポリフォニーといい、多声的、多音性とも訳される音の多様さです。クラシックの音楽を聴くということは、現れては消え、また現れては消えていく、無限の生滅をくり返すおびただしい音の流れを、同じように変わり続ける自分が聴くという、きわめて仏教的ともいえる行為です。そしてすべてが変わりつづけるなら、何にも執着しなくてよいと考えられるようになり、何かに執着する必要もなくなるわけです。


自分の人生の優れた演出家になれる

 私たちは誰もが子どもの頃から、親や親戚、友人、教師などまわりにいる人に、自分の人生をどうしていったらよいかを学んできました。大人になり多くを経験してからは、自分の人生を決めるのは他の何でもなく、誰でもない自分自身であるとも学ぶようになります。そして、とてもシンプルなカラクリに気づきます。それは人生を素晴らしいものと考えられれば素晴しいものとなり、感動的なものと考えられれば感動的なものとなる、おもしろいものと考えられればおもしろいものとなり、絶望しかないと考えれば絶望しかなくなるというものです。私たちはふだんから、自分たちの日常や生活をいかに創意工夫して、よりよいものにしていくかが試されています。ドラマの良し悪しは、いつも演出家の力量によるところが大きいのです。
 クラシックを知ると、自身の人生の演出がより巧みになります。その時々で、ドラマには状況にあった選曲というものがありますが、悲しいシーンで誰もが知るありきたりの悲しげな旋律の曲を流すのは三流の演出家でしょう。では同じ悲しいシーンで、例えばピアソラなど、タンゴにクラシックの要素を取り入れた哀愁あふれる旋律を流したらどうでしょうか。シーンのとらえかたもドラマの印象もがらりと変わるはずです。悲しさが哀しさとなり、スタイリッシュななかに微妙な諧謔と洒落たユーモアのようなものが加味され、奥行きと深みが増します。また、それでも前を向いて歩いていこうという気持ちにもなります。
 クラシックほど、多種多様なジャンルもありません。そのため、どんなときにどんな曲を聴くか、あるいは思いうかべるかには、その人ならではの個性が現われます。その時々で、どうしてその曲なのか、自分なりに意味づけをしたり、そんな聴きかたを誰かと共有することは、クラシックの大きな楽しみです。これを実現する最高の舞台の一つが、結婚式での選曲となりますが、これは章を変えてお話します。
 私たちは悲しいときや絶望を感じたとき、知らず知らずのうちに自分を悲劇の主人公にして、それをいかにもありきたりな、手垢にまみれた曲が流れるようなシーンにしていないでしょうか。優れたクラシック音楽は、たとえ悲しみというテーマを扱ったとしても、大多数の人がすぐに思いつくような調味料はけっして使わず、独特のスパイスで味つけしたものなのです。そういう音楽を多く知ると、ものごとのとらえかたに、他の人々とは違う絶対的な幅がうまれるのです。

 


自分をうまく盛り上げていくのが巧くなる

 日々の生活から日常、さらに人生をできるだけ楽しむには、自分がどれほどリアルにその時間を生きていると感じ、またその場にいると感じられるかによると思います。それには、自分とまわりの人たちをいかに盛り上げていけるかにかかっているでしょう。それは生きていることの醍醐味ともいえますが、古来より私たち日本人はそういうことにたけていて、たとえば夏祭りや花火に行くときには浴衣を着るだけで、自分やまわりの人たちのテンションがあがって、より楽しめるのを知っています。
 日本人だけでなく、ヨーロッパの人々も昔から「盛り上がること」が大好きでした。二百五十年前にイギリスとフランスの間で争われたオーストリアの王位継承戦争が終わったとき、平和条約が結ばれたのを祝って花火大会が開かれました。そこで、花火が打ち上げられる合間に、一〇〇人の大オーケストラによって、当時の大作曲家ヘンデルがそのために書き下ろした「王宮の花火の音楽」が演奏されたのです。ただ花火を打ち上げただけでなく、そこに野外演奏を加えたことで、平和を迎えた人々の喜びがいっそう高まったのではないでしょうか。
 クラシックの曲には、それぞれに固有の性格があります。例えば祝祭的な気分を持つ曲なら、世界中のさまざまな式典や、スポーツの祭典などをいっそう盛り上げるのに欠かせないもので、その音楽なしではその祭典はありえないほど、密接なつながりがあります。イギリスで百二十年にわたって毎年夏に催される世界最大のクラシック音楽の祭典、プロムスでは、二ヶ月の間に一〇〇以上の演奏会が行われますが、最終夜ではエルガーの「威風堂々」第一番が演奏され、聴衆全員で歌うのが定番になっています。またノーベル賞の授賞式ではグリーグの「ホルベルク組曲」から前奏曲が流れたりします。有名なのは、サッカーのワールドカップで流れるヴェルディの「アイーダ」からの二曲で、この曲が流れると、世界的なスポーツの祭典という祝祭的な気分が頂点へ達します。クラシックのこうした効果は、利用しない手はありません。
 クラシックを聴き続けると、曲の持つ特色がわかってきます。すでにあげた例でいえば、祝祭的な気分を持つ曲にはどんな曲があるのかがわかってくるのです。プライベートで自分が何かの式典に参列したり、スポーツを観戦するようなときに、そんな気分を盛り上げてくれる曲をじっさいに聴いたり、思いうかべたりすると、自分がまさに今そこにいるというリアルな充実感をあじわうことができますね。


第4章 クラシックで思考・感情・性格を自由にあやつる

クラシックは論理的な思考をみがく

 クラシックを聴くと頭がよくなる、というと、ではクラシックを聴かない人は頭が悪いのかとか、プロのオーケストラ奏者は秀才ばかりではないかとお叱りを受けるかもしれませんが、そういうことではありません。たしかに、クラシックが脳にいい影響を与える、クラシックを聴くと頭がよくなることは知られています。ただここでいう頭のよさは、単に勉強ができるとか、偏差値が高いというだけではありません。物事をしっかり捉え、論理的に考え、それを明確に表明できるようになることです。
 そもそもクラシックは論理的なもので、楽譜もきわめて数学的に作られています。論理的な考えかたを好む人にはたまらない遊戯といった性格もあるせいか、クラシックの世界には理系出身の人が数多く見受けられます。ロシアの作曲家ボロディンは化学者でもあり、また医師でした。指揮者も例外ではなく、スイス・ロマンド管弦楽団を半世紀以上にわたり指揮したエルネスト・アンセルメは数学者から転向し、名指揮者カルロス・クライバーは工学部出身です。
論理的な芸術に親しむほど、私たちは論理的な思考にも親しめるようになります。クラシックを聴きこむほど、私たちは楽曲の構造、構成というものが、レントゲン写真で骨格を見るようにはっきりと見えてきます。それは小説などの文芸作品でも同じです。まず作品の冒頭にテーマ、主題が現われ、それが各章のなかでさまざまな出来事、音楽でいうモチーフ、要素と絡み合いながら発展していきます。クラシックの構成として一般的な四つの楽章を時間に置きかえるなら、ある主人公が少年時代から青年期、さらに成年を経て老年にいたるまでが、一つの旋律が時間をくぐり抜けてさまざまに変容していく過程でわかります。じっさいに各楽章を春、夏、秋、冬の「四季」に例えるヴィヴァルディのヴァイオリン協奏曲集は、みなさんもご存知ですね。
そんなことを考えながらクラシックを聴くと、小説を読んだり大河ドラマを見るのとまったく変わらない感覚で、クラシックを聴くことができるようになるのです。


クラシックは知的欲求を刺激する

クラシックを好きになると、その曲をもっと知りたいという好奇心がうまれ、音楽が作られた背景や歴史、民族など多くのことを自然に学ぶようになり、かなりの知識が身につきます。ましてプロの演奏家ともなると、例えばかつてジュリアード音楽院で学びながらコロンビア大学で政治思想史を学んだヴァイオリニストの諏訪内晶子さんのように、クラシックとその周辺諸領域をさらに徹底的に学ばれています。
また私にはクラシックが、ことさら知的欲求を刺激する音楽に感じられます。どんなジャンルの音楽でも、それを聴くときに私たちの心はゆり動かされます。その動かされ方はジャンルよって異なり、私たちはそれに応じたさまざまな欲求をおぼえます。例えばラブソングを聴けばせつなくなったり、人恋しくなったりします。また音楽によってはいたずらに性欲や物欲を刺激するものもあります。ところがクラシックを聴くと、他の欲求よりも知識欲を優位にするような働きがあるように感じられるのです。
 私はこれまで多くのクラシック愛好家と出会ってきましたが、私はともかく、クラシック音楽を聴く人のほとんどが、教養ゆたかだったり、いわゆる知的職業に携わっていました。クラシック音楽を聴く人は、頭がよさそうに見えるだけでなく、ほんとうに頭がいいようです。


やる気を高められる

 テンションを高めるのに音楽を利用するのは、私たちだけでなく、スポーツ選手などがふつうに行っていることです。クラシックをたくさん聴くようになると、どんな曲を聴いたときに、自分の心がどう反応するのかを、こまかく観察できるようになります。    
例えば今すぐに何かをしなくてはいけないのに、どうも気分が乗らない、そんなときに自分にはあの曲がいい、スイッチが入るというのをいくつも知っていれば、それを聴くだけですぐにやる気を高めることができるのです。
 これから勝負をかける、いくぞと気合を入れたいとき、心を高揚させたいとき、よく知られている曲がいくつかあります。

ショスタコーヴィチ 「交響曲第5番 革命」 第4楽章
シベリウス交響詩 フィンランディア
ロッシーニ 「ウィリアム・テル」 序曲
チャイコフスキー 「交響曲第6番 悲愴」 第3楽章
ビゼー 「カルメン」 組曲第一曲 闘牛士
ドボルザーク交響曲第9番 新世界より」 第4楽章
ワーグナー 楽劇「ワルキューレ」よりワルキューレの騎行
マーラー 「交響曲第8番 千人の交響曲」 冒頭部

 以上、ここでは一般的なものにとどめますが、どんな音楽でモードが切り替わるかは、個々人で違いがありますから、あなたにしかわからないことです。多くのクラシックを聴いて、あなた自身を被験者として、または観察の対象にして、あなただけの音楽を見つけてください。


クラシックはどんな絶望にも寄り添ってくれる
------ベートーヴェンピアノソナタ第三十一番」

 クラシックをただ聴き流すだけでも、大きな安らぎが得られます。そしてたくさん聴くようになったら、次は曲がどんなふうに出来ているのか、その構造にも目を向けてみましょう。構造からはストーリー、物語が浮かび上がってくるからです。
よくベートーヴェンの作品では、苦悩を克服した先にある歓喜が描かれているといわれます。彼は生涯に三十二曲のピアノソナタを作曲していて、そのなかの「ピアノソナタ第三十一番」の第3楽章は、最後の楽章として物悲しく始まりながらも、その気分を打開しよう、明るさを取り戻そうとするかのように展開していきます。それでもやがて力尽きてしまい、しだいに音が途絶えます。…つかのまの無音。すると次の瞬間、ふと何かを悟ったのではないかと思われる、かつて聴いたこともないフーガの旋律が、一閃の光明のように現われます。最初は小さな気づきのように心もとなく、次にしっかり確かめるようにやや強めに奏され、一つの旋律に続いて同じ旋律が幾度となく繰り返されます。しかし、そこには依然として厳しさと不気味さをあわせもつ暗さもまとわりつき、光と闇が交錯します。ひとたび希望を見いだそうとするものの、やっぱりだめなのではないかと諦めてしまうかのように、曲調は暗くなり、またしても物悲しい旋律、嘆きの歌へと戻っていきます。そして前と変わらないかに聴こえる絶望がひとしきり続くのです。音楽はさらに暗く、もっとも深い絶望へと沈みこみます。ここで再び、つかのまの無音が訪れます。
すると今度は、息絶えた人に心音が戻るのを想わせる和音の打撃が続きます。打撃は強まり、確信めいた響きに変わっていきます。続いて、音楽的な必然性というか、音と音のつながりによって、そうなるべくしてなった、また他にはありえないと思わせる複雑な経緯を辿った後に、先のフーガの旋律が再び頭をもたげます。
音楽は高まり、それはもう何ものにも否定できない旋律となって決然と響きわたり、クライマックスが訪れます。そして目も眩むほどの歓びが高らかに歌い上げられて、曲が締めくくられるのです。
 生きている私たちに苦しみや悲しみは尽きませんが、少しでも希望を持ち続けていさえすれば、あるときふっと霧が晴れるように、また夜明けの暗がりに朝の黎明がさすように、そうなるべくしてなったとしか思えない、また他にはありえないと思わせる、必然的なプロセスを辿って解決に至るケースはよくあることです。そんなときに私たちは、いつまでも続く苦しみ悲しみはない、終わらない夜はないと励まされる心地になるものです。


挫折からの立ち直りかたを教えてくれる

どんな人でも失恋をしたり、精神の危機に出くわしたり、幾度もの挫折を経験しながら、それを克服していきます。そうして絶望からやがて希望を見いだしたり、挫折から復活したり、暗闇から光明を見いだしていくまでを、作家は文章で著わし、作曲家は音楽で表現するのです。
作曲家のシューマンも精神を病み、人生の明と暗の時期がはっきり分かれていたといわれています。旺盛に作曲をする時期と、そうでない時期があり、躁うつ病だったという説もありますが、多くの芸術家に見られるように、暗くネガティブな部分、ダークサイドがあるからこそ、その反動のように明るくポジティブに恋愛や創作に取り組めたのではないでしょうか。それは彼の音楽が物語っています。シューマンの「交響曲第2番」の第4楽章には、悩みに挫折するくらいなら、ありあまる生命力で破裂したほうがいい、という作曲者の想念がビシビシと伝わってくる躍動感があります。
またラフマニノフは失恋と最初の交響曲の失敗で、強度の神経衰弱に苦しみますが、精神科医ニコライ・ダール博士の暗示療法で回復に向うなかで、「ピアノ協奏曲第2番」を作曲しました。陰鬱な導入に始まる曲が、ロシア音楽らしい抒情性を湛えながらドラマティックに発展し、最後は雄大なテーマのなかに曲が締めくくられます。
こうした曲を聴くとき、私は人間が苦しみ、もがきながら立ち上がろうとしては失敗し、いくつもの長い夜を経て、ふたたび立ち上がろうとするイメージを重ねずにはいられないのです。


何ごとにも飽きっぽい性格が変わる

 指揮者の佐渡裕氏がかつてインタビューで、「ベートーヴェンは自分にとってご飯のようなもの」と語っていました。毎日楽譜に目を通し、リハーサルをし、本番で演奏しても、いつも新たな発見があり、ご飯を食べるのと同じく飽きないという意味です。音楽を真に理解した人ならではの言葉ですが、作品もそれだけ奥深く、何度か耳にしたくらいではとても理解が及ばない、安易な解釈を拒むものといえます。一般の人には、クラシック音楽は飽きるというイメージがあるようですが、前にお話したように、それはその曲がほんとうに好きではなく、ほんとうに好きな曲に出会っていないまま、ある決まった音楽を聴いたときに起こる一時の感情にすぎません。
好きになるポイントは、ある曲がそこまで退屈ではないが、このまま聴きつづけようか止めようかというときに、もしかしてこの作品には、これから自分を夢中にさせるような、ワクワクさせる何かが隠れているかもしれない、そう考えることです。そして山登りと同じく、作品の頂上であるクライマックスまで聴いて、そこからの風景を眺めてみるのです。それを幾度となく繰りかえすうちに、私たちは作品の本質を見抜く力や、作品に隠れた魅力を発見するすべを自然に身につけることができるようになります。
 高級なフランス料理でも毎日食べていたら、すぐに飽きてしまうでしょう。けれどもクラシック音楽は、ひとたび魅力を知ってしまったなら、料理でいえば、おにぎりのように毎日でもおいしく食べられるものとなります。そんなステキなものと、どのようにして出会ったらよいのか、次の章で詳しくお話していきます。

 

 

第5章 クラシックが大好きになる出会い方

王道「NHK‐FM」

 クラシック音楽を好きになる出会い方にはさまざまありますが、なかでももっとも身近で、まったくお金がかからず、インターネットからダウンロードしたりする手間もいらない方法があります。それはラジオです。
じっさい私自身がラジオを聴いて好きになっていったというのもありますが、なかでも最も歴史があり、多くの人が親しみ、プログラムが充実しているのは、その放送局が世界に誇る名門オーケストラ、NHK交響楽団を擁するNHK‐FMでしょう。朝から晩まで通しで聴いたら、平日でも休日でも一日に一〇時間くらいクラシック音楽が流れています。朝6時からは、モンテベルディやバッハなど、古楽を中心に紹介する番組に始まり、午前と午後にもそれぞれ二時間くらい、解説をまじえて名曲を紹介する番組をはさみ、夜7時を過ぎた頃からは、「ベストオブクラシック」という長寿番組があります。これは国内のみならず、世界各国の放送局などが収録した演奏会のライブ録音を流すもので、会場の雰囲気までそのまま伝わってきます。曜日によって、その後の時間もクラシックの番組があったり、たまに祝日などに特別番組があると、早朝から深夜までずっとクラシックばかり流しています。


ラジオでクラシックを知る快楽

NHK‐FMではすべてのクラシックの番組で、曲の解説と、作曲家のエピソードなどが紹介されるのですが、これがとにかくおもしろいのです。何の予備知識もなしに聴いていたときの曲の印象が、その曲を知るにつれてどんどん変わっていき、当初とはまるで違った聴き方をしている、なんてことも多いのです。その曲がいつ、どんな人によって作曲され、紹介され、演奏されたか。そこにどんなドラマがあったのか。あるいはそれぞれの時代で人々に絶賛される音楽もあれば、否定される音楽もある。そのとき作曲者がどんな運命を辿るか、そんなことを詳しく知ることで、音楽を聴いているのに、その時代の匂いをかぎ、そこに生きた人々の人生を聴いていると感じたりもします。演奏会を収録した番組なら、ラジオの司会者がオーケストラや独奏者の様子、会場の雰囲気、客演した女性演奏家がどんなドレスを着ているかなど伝えてくれたり、解説もいくぶん華やかになるのも聞きどころです。私はNHK‐FMを聴いて四半世紀になりますが、膨大な曲を聴いては、さらにその解説を聞き、また曲を聴いては解説を聞くというのを、おそらく何千回、何万回と繰り返してきたことになります。もっとも、そんなに聴いているという意識はなく、いつも世界中のおいしい食べものや飲みものを味わううちに、知らないうちに時間が過ぎていたというのが実感です。


名曲との出会いは恋人との出会いに通じる

大好きな曲との出会いは、恋人との出会いに似ています。というのは、たまに偶然のように耳にするだけでなく、どれだけ多くの音楽に出会えるか、どれだけ曲を聴けるかにかかっているのです。そう言われると、ちょっと大変そう…、と敬遠したくなるかもしれませんね。
気にしなくてもだいじょうぶです。コツは、ガツガツしないことです。恋人を見つけるときみたいに、大好きな人=曲を見つけたいなどと思わずに、もっと気楽に聞き流していくことです。例えばクラシック音楽を、いつも自分の身近なところで流しっぱなしにして、耳を慣れさせることが大切です。そのなかで、クラシックにはどんな感じの、どんな雰囲気の曲があるのか、ブラームスの響きとはどんな響きか、ロシア音楽のメロディとはどんなメロディか、といったことを、おおざっぱにでも「感じる」ことです。そんな、かたひじはらない自然な姿勢が、あなたと名曲との出会いをより引き寄せます。そのなかで、ちょっといいかもとか、また聴いてみたい、もう一度会ってみたいという曲があったら、作曲者と曲名、できれば演奏者をメモしておきます。そのメモが、次回にネットやCDショップなどでその曲と再会するときの、いわば連絡先になるのです。その曲と再会したときにあなたがときめいたなら、その曲との恋がいよいよスタートします。


クラシックを聴きはじめるのはまさに今

最近では以前よりもクラシックを親しみやすく紹介するラジオやTV番組がとても多くなってきました。NHK‐FMではすでに二十年ほど前、金曜日の午後2時から、渡辺徹さんとピアニストの熊本マリさんの司会で「おしゃべりクラシック」という番組をやっていて、私もよく聴いていました。番組は、クラシックにあまりなじみのない初心者でもわかりやすく、楽しめるよう配慮がなされていて、ずっと聴いていると、司会の渡辺徹さんがしだいにクラシックに詳しくなっていき、それにつれてより楽しそうに曲紹介するのがわかったり、熊本マリさんがプロのピアニストならではの裏話を披露してくれたりと、クラシックをかなり聴きこんだ人でもそれなりに楽しめる内容になっていました。なかでも、「よく聴けば似ているぞコーナー」というのがあり、リスナーからの投稿で、ラヴェルのピアノ協奏曲の終楽章とゴジラのテーマ曲がそっくりだといって盛りあがったりしていました。それから司会者は何人も変わりましたが、現在でも金曜の午後2時はそういう雰囲気の番組になっています。
 またTVでは長年にわたって、日曜の夜9時から「N響アワー」という番組をやっていました。おもにNHK交響楽団が世界屈指の指揮者や独奏者を招いて行う定期公演の様子を紹介した番組で、ホスト役もピアニストの中村紘子さんや、作曲家の池辺晋一郎さん、西村朗さんといった錚々たる顔ぶれの方々が、じっさいにスタジオのグランドピアノを弾きながら名曲の解説をしたり、演奏のコメントをする、内容的にはそれなりに専門的で、見応えのあるものでした。その番組も、昨年から「らららクラシック」という、もっとわかりやすくクラシックを楽しめる番組に変わりました。司会にベストセラー作家の石田衣良さんを起用するなど、クラシックにあまりなじみのない人でも気軽に聴き始めるきっかけとなるような番組です。


クラシックのCDはまず図書館で借りる

 CDを借りたいとき、すぐ思いつくのはレンタルショップへ行くことでしょう。私が小・中学生の頃はレコードレンタルの時代で、高校生になってCDレンタルになりましたが、当時の私はクラシックについて未知の曲も多く、聴いたことがない曲を片っぱしから借りては、せっせとカセットテープに録音していました。ラジオからも録音していて、そちらはテープ代くらいしかかからなかったのですが、レンタルショップから何枚も借りると、一〇代の少年にとってかなりの出費になりました。しかし店で売っているのとまったく同じCDを、ある場所で無料で借りられるようになるまで、それからかなりの年月を待つことになります。
 その場所とは、いわずとしれた図書館です。最近ではかなりの図書館で、いろいろなジャンルの音楽CDや、DVDが借りられるようになりました。図書館ですからもちろん無料ですし、そこになければリクエストして買ってもらうこともできます。そのラインナップは、ことクラシックに関してはレンタルショップよりはるかに充実しています。
あるレンタルショップのクラシックコーナーは、誰もが知っている指揮者や演奏家のCDや、一つのアルバムに様々な曲が入った、初心者向けに作られたCDがほとんどで、クラシックを聴きなれた人にはきわめて退屈な品揃えです。クラシックを聴きなれない人にとってさえ、どれも聴いたことのあるクラシック音楽の定番ばかり集めたものですから、アルバムの退屈さは変わりません。レンタル料を払っておそるおそる借りて聴いてみては、自分には合わなかったと落胆し、二度と借りないという負のスパイラルに陥ってしまいます。
図書館ではクラシックでもオペラ、声楽曲、管弦楽曲交響曲、独奏曲、協奏曲とジャンル分けがされ、そのなかでさらに作曲者家別になっているのがほとんどです。レンタル料も気にせずに借りられるので、まずはそこで、人の意見など気にせずに片っぱしから借りまくりましょう。たくさんの曲を聴き流すなかで、あなたの大好きな曲がかならず見つかります。


ライナーノーツを愛読する

 クラシックを好きになる人にとっての大きな喜びの一つは、レコードやCDについている解説書、ライナーノーツを読むことです。他のジャンルでいう歌詞カードにあたるのですが、クラシックでは歌詞のある声楽曲以外は、アルバムの作曲家と作品、各楽章の構成と性格、指揮者や演奏家についての詳しい解説が付いています。輸入盤は英語や他の言語で記されますが、日本で手に入るほとんどのアルバムのライナーノーツは、日本人の音楽評論家が書いていて、これがとにかくおもしろいのです。
音楽を聴きながら解説書を読んでもよいでしょう。音楽を聴きながら楽譜を読むのが好きな人も多くいますが、それとはまた違った魅力があります。なにしろ音楽を言葉で表現しなくてはいけないため、かなり難しく、評論家たちはさまざまな言いまわしで、比喩を多用しながら、表現を工夫してなんとかその作品と演奏の魅力を伝えようとします。そのため、それを読むことで言葉にしにくいものをどうやって言葉にするかが学べますし、解説の数ほどさまざまな音楽の聴きかた、味わいかたがあるのを知ることができ、価値の多様さを理解する良き教材となります。そもそも最初に価値の多様さを理解できなければ、他民族による芸術作品であるクラシックを理解するのも難しいからです。人間の幅を深めるためにも、この解説書はかならず目を通すべきものでしょう。
 音楽の聴きかただけでなく、作品そのものの知識が得られるのも大きな魅力です。音楽と作品のエピソードとは、それぞれ切っても切り離せない有機的なつながりを持っています。作品をほんとうに理解するには、音楽を聴いては作品のエピソードが思い出され、作品のエピソードを思い出しては音楽が聴こえてくる、そんな関係が理想だと思います。ライナーノーツを読みこむほど、それが可能になり、クラシックがますます好きになります。


カフェ・クラシックを愉しむ

 クラシック音楽を専門に流すカフェも、好きな曲に出会うには絶好の場所となります。昔は名曲喫茶とよばれましたが、ここでクラシック専門のカフェの特徴についてお話しましょう。
店はたいてい雑居ビルの地下などで目立たなく営業していて、店の名前に「モーツァルト」などの作曲者名、あるいは「クライバー」などの指揮者名を冠しているのがほとんどです。当然その名前から、店主がどんなクラシックを聴くのかがわかります。扉を開けるとコーヒーの香りとともに、店内でおそらくいちばん高価であろう木製スピーカーから弦楽合奏などの室内楽曲が流れてきます。その曲がマニアックなほど、その日も閑散とした店で主人が好みの曲をかけているのが推測されます。数千枚のCDが壁際をうめつくす棚のほうへ歩くと、やはり誰もいない店で店主が一人カウンターに座ってタバコをふかしている、そんな感じの店です。
 店に何度か通うと、無口な店主から一言、二言話しかけてきます。初めは、おたがいにどれほどクラシックに精通しているのか推しはかるような、独特の会話になりますが、やがてうちとけると、向こうかいろいろ教えてくれたりします。FMを聴くだけでは一方通行でも、カフェならやたら詳しいガイドがその場で教えてくれるのです。もちろん店にある数千枚のCDも聴き放題なので、自分の好きな曲を違う指揮者や演奏家がどう料理するのか楽しめます。ただ私の場合は、自分の好みでばかり聴くと、どうもワンパターンになる気がして、あえて店主が好みにまかせて次々にかけるのを、店に置いてある音楽辞典で調べながらじっくり聴くのが好きでした。
 私がよく通っていた店では、夜にアルコールも出していたので、私はいつも決まった席で朝から晩まで本を読みながら、かなりの数のクラシックの名曲と出会い、親しみました。クラシックを好きになると、こういう時間は天国のひと時となります。


第6章 あまり知られていない演奏会の楽しみ方

演奏会の醍醐味

 クラシックを好きになるのに、やはりリアルに演奏会へ行くことを抜きには何も語れません。いつもラジオやCDで聴いている曲が、コンサートホールのステージを埋め尽くす百人以上のオーケストラから音の風となって、自分の全存在にじかに響いてきます。その感動は大きく、かなり特殊な体験となります。
 演奏会は、どんなものでも結構です。入場料も1,000円くらいの市民オーケストラから、数万円にもなる世界屈指のオーケストラまでありますが、それぞれに学ぶことはあります。この違いを知ることも、クラシックの楽しみの一つなのです。
 最近は、以前に比べてかなり敷居が低くなり、各地のオーケストラなどではそれぞれに趣向を凝らしたイベントが行われます。演奏の前に、司会者と指揮者によるトーク・セッションが行われ、曲目がわかりやすく解説されたりします。私が近年行った演奏会では、作曲家の西村朗さんの曲の世界初演を山形交響楽団が行ったもので、かつてN響アワーの解説者としても親しまれた西村氏と、指揮者の飯森範親氏による演奏前のやりとり、プレトークはとても興味深いものでした。また、同じ山形交響楽団に、チャイコフスキー国際コンクールでグランプリを獲得したロシア人演奏者が客演したときに、演奏会後のホールで、指揮者や演奏者、聴衆が集まってのトーク・セッションが行われたりもしました。こういうのは、演奏会でしか経験できないものです。


「名曲を見る」愉しみ

 クラシックの演奏会へ行けばいくほど、クラシックが大好きになります。まず、いつもCDやラジオで聴いている曲が、じっさいにどれくらいの人数と編成で演奏されているかを知ることができます。指揮者によっては楽器の編成や配置を変えたりするので、それによって作品の新たな魅力が引き出されるのをその場で確かめることもできるのです。 
 またどんな楽器で、どのように演奏されているかをじかに目で見ることで、それまで気づかずに聴いていた楽器のパートや旋律を新たに発見できます。CDやラジオの音では、ステージ上のすべての楽団員の音を再現することは不可能なのです。このような気づきは、演奏会へ行くたびに得られますから、演奏会で曲を聴くたびに、それまで気づかなかった音が次々に追加されていき、その曲の世界が驚くほどひろがります。それ以降は、かりに同じ曲をCDやラジオで聴いたとしても、演奏会でじかに聴いた経験と知識で補足しながら聴くことになり、自ずと音に映像が重なるのはもちろん、音楽がより重層的に聴こえ、それによって感動の質もどんどん高まっていくのです。そしてときにステージ上には、部屋で聴いているときには想像もつかない、とんでもない楽器が登場します。
 ラヴェルの「ピアノ協奏曲」は、冒頭で鞭を打ち鳴らすようなインパクトのある音で始まります。この音が本物の鞭なのかどうかは、じっさいに演奏会へ行かないとわかりません。正解は、みなさんがその目で確かめてください。
鞭などはかわいいもので、なかには作曲者が曲のクライマックスで「本物のハンマーを振りおろしなさい!」と指示をしている有名な曲もあります。マーラーの「交響曲第6番」の最終楽章で、ある場面になると、打楽器奏者がやおら立ち上がり、巨大な木槌を手に取って振り上げ、次の瞬間にいきなりステージの木の床めがけて振り下ろします。暴力的な音と同時に木が割れるような音が響きますが、これは床の上に置かれた木片だったり、木箱だったりします。音もかなりの迫力ですが、視覚的な効果もあったのかもしれません。


音が自分を中心に廻りだす
------マーラー交響曲第8番 千人の交響曲

 子どもの頃から、私にはいつか演奏会で聴いてみたい曲がありました。その曲は、クラシックの音楽史上、もっとも大規模な人数と編成で演奏されるため、じっさいに聴きに行ける機会がきわめて少ないものでもありました。最近でこそ、まれにやや縮小された編成で演奏されることがありますが、初演のときには作曲者自らの指揮で、ステージ上には一五〇人の大オーケストラと、三百五十人の児童合唱団、さらに五〇〇人もの混声合唱団、あわせて一〇〇〇人もの人々が軍隊さながらに整列し、それにパイプオルガンが加わるという前代未聞の規模でした。
 おもにCDや録画などで曲を聴いていたのですが、あるとき、当時よく通っていたクラシック専門のCDショップの人から、演奏会でのその曲の印象を教えてもらいました。色白で小太りの温厚そうな人は、演奏会場でその曲を聴いたとき、ただ一言「音が自分のまわりをぐるぐると廻りだした」というようなことだけを言っていました。それまで私は、千人もの演奏者が奏でる音をじかに聴いたことはありませんでした。私の想像はふくらみ、それは音がホールのあちこちに反響して、四方八方から聴こえてくるせいだろうなどと、勝手に思っていました。
 その謎はその後しばらくして、ようやく解き明かされました。東京で行われた演奏会のチケットが手に入ったのです。いよいよ曲が始まり、演奏会場にいる私に、冒頭でのパイプオルガンの鳴動と、数百人もの合唱団、さらにオーケストラの森からいっせいに音の風が吹き始めました。しかし、それは自分を中心に廻るといった感じでもなく、多分にCDショップの人はかつての記憶を脚色して言ったものなのだろうと思いました。
 この交響曲は第一部と第二部に分かれていて、休憩をはさんで演奏されるのですが、三十分ほどの第一部の最後、クライマックスにさしかかったときに、私は確かに耳のすぐ後ろでトランペットのファンファーレを聴きました。私だけではなかったようで、会場の多くの人もじっさいに後ろを振り返り始めました。すると二千人の聴衆のいる二階席のバルコニーに、バンダと呼ばれる別働隊が数人、トランペットをかざして演奏しているのが見えました。指揮者は客席とステージ上を交互に見ながらタクトを振り、ステージからの音と客席からの音、さらにホールの高みから降りそそぐパイプオルガンの音が、まさに「自分を中心に廻りだす」ように聴こえたのです。


縁に導かれて演奏会へ行く

私は、よく無料で演奏会へ行きます。雑誌の読者プレゼントに応募するのですが、応募する人もさほど多くないためか、これがかなりの確率で当たるのです。雑誌以外にも、各市町村の情報誌やタウン誌などで、地元のオーケストラの音楽祭や定期演奏会のチケットをプレゼントしていることも多く、これもかなりの確率で当選するため、応募してみるのもよいでしょう。これで演奏会へ行くのも、一つの縁なのですから。
プレゼントに応募しなくてもチケットは手に入ります。それは地元のオーケストラの会員になったり、サークルに参加したりしながら、自分のまわりの人たちに、とにかくクラシックが好きであることを絶えずアピールし続けるのです。家族や親戚、友人のなかには、一人くらい市民合唱団に所属しているとか、コーラスのサークルに参加している、音楽関係の仕事をしている人、クラシックが好きな人がいたりします。そういう人から縁が巡り巡って、私はこれまで数えきれないくらいチケットをいただきました。
また演奏会のチケットというのは、自分が行きたくて買った人だけが持っているわけではありません。むしろそうではない、主催者に協力して買ったものとか、人にもらったものが多く流通しています。かつて私は演奏会を主催した側にいたこともありますが、一人何枚かずつ割り当てがあって、それを購入して家族とか、クラシックが好きそうな人にあげていました。
あるいは、もともと自分が行きたくて買ったものの、当日になって自分が行けなくなる、約束をしていた相手が行けなくなるケースもたくさんあります。そんなときは払い戻しができないので、捨てることになります。私もこれまで当日行けなくなって、かなりのチケットを捨てています。じっさいチケットを予約したときは満席だった筈が、当日に行ってみるとかなり空席があったりするのは、そのせいです。
そんなときに、余ったチケットをどうにかしたい人が、すぐにあなたの存在を思いだすことができれば、当然そのチケットはあなたに贈られる確率が高くなります。いわば運というものが、人の縁によってほんとうに「運ばれてくる」わけですが、そうして感謝のうちに行かせてもらった演奏会というものは、フシギにあなたにとって特別なものになったり、生涯忘れられない曲に巡り会ったり、そこでさらに新たな縁に出会ったりと、とても印象に残るものとなります。


シークレット・イベント「ゲネプロ」に参加する

 ここで、ふつう限られた人にしか知らされない情報もお話しましょう。各地のオーケストラにはファンクラブなどのサークルがあって、そこに参加していると定期的に会報が送られてきます。内容は、楽団のメンバーによる対談や、演奏会後に楽団員をまじえて行われる懇親会など、さまざまですが、気をつけていると、ときどきそこに「ゲネプロ」についての情報が掲載されます。「ゲネプロ」とは、いわばリハーサルのことで、オーケストラが演奏会を控えて、会場となるホールで本番さながらに事前の練習、音合わせを行います。リハーサルですから、ステージ上の楽団員は燕尾服ではなく私服で、客席にもほとんど人がいません。ただまったくいないわけではなく、楽団の関係者とおぼしき人や、それ以外の人もいます。それ以外の人というのが、いわばゲネプロの参加者で、先のファンクラブの会報などで応募してきた人なのです。
 このゲネプロは、一般の演奏会ではとてもあじわえない、きわめて特殊な体験ができます。まず、オーケストラの音がどのように作り上げられていくのかが、よくわかります。曲のところどころで、指揮者によって演奏が中断され、その指揮者の解釈で、音の一つひとつにいたるまで細かな指示が出され、各パートごとにそれが忠実に再現されるまで繰り返されます。まるでステージ上に、音で作られた緻密で巨大な伽藍が出来上がっていくのをまじかに見ている、そんな印象をうけます。そしてじっさいに演奏を聴くときには、リハーサル風景とかさなって、その音が厚みをもち、より立体的に聴こえてくるのです。
 本物のオーケストラによる臨場感のある練習風景を、しかもたいていは無料で開放しているので、参加しない手はありません。ゲネプロへの参加は、一般にはほとんど知らされていないので、興味のある方は、各オーケストラのファンクラブへ入会したり、楽団の事務局に直接問合せをしてみるとよいかもしれません。

第7章 クラシックが大好きになる聴き方

ちょっと気になる作曲家の全作品を聴いてみる

 ここまでのお話で、ちょっとでも気になったり、いいなと思う曲があったら、もうあなたがクラシックを大好きになるのは時間の問題です。これからあなたに、大好きになる様々な聴き方についてお話したいと思います。気にいった曲のCDがあると、たいていそのアルバムには同じ作曲者の曲がいくつか入っています。そして、その別の曲のほうがメインの曲より気にいることだってあります。そこで、気にいった曲はもちろんですが、その曲を作った作曲家の作品のいくつか、できれば音源のあるすべての曲を聴いてみることです。恋愛や結婚と同じで、あなたと音楽には、合う合わないの相性があります。いくら誰かに薦められたり、みんながいいと言っても、あなたとの相性がよくなければ、大好きになることはありません。ですから人からのお薦めはあまりあてにせずに、自分の耳でいいと思ったものを聴くほうがいいのです。そして、あなたがある曲をいいと思ったら、その作曲者とあなたは相性が合っているのかもしれません。そこまで来たら、金脈を探すように、ちょっと冒険するみたいな気分で、その作曲家の世界を歩き回ってみるのです。すると、他の作品のなかにもとてもいい曲がたくさんあって、その作曲家をもっと知りたくなります。さらにその過程で、世にはほとんど知られていない隠れた名曲、名盤を見つけたりします。そんなときは自分が自身の耳でその作曲家の才能と魅力を見いだすわけですから、とてもうれしくなるものです。


一つの曲を指揮者、演奏家で聴きくらべをする

 これはクラシックでしかできない愉しみ方で、クラシック・ファンの誰もがあたりまえに行っています。私が幼い頃はレコードやCD、録音したものを何度も再生するという聴き方でしたから、当然ながら一つの曲をいつも同じ指揮者や演奏者で聴いていました。あるとき私は、すでに聴きなれたはずの曲が、まるでそのとき初めて聴いたかに思える体験をしました。それは上海市交響楽団が演奏する、ブラームスの「交響曲第3番」で、独特の響きをもって奏される曲が、はじめ何の曲なのかわからなかったほどです。そして指揮者や演奏者が変わるだけで、同じ曲がまったく違う印象の曲になるのを知ってから、大好きな曲でも指揮者や演奏者が違うレコードやCDを何枚も持つようになったのです。
 とくに楽器を演奏したことのあるクラシック・ファンには、そんな聴き方をする人が多いようです。私がかつて勤めていたクラシック音楽専門の輸入販売会社には、かつて金管奏者だったり、声楽をしていた人が何人もいました。楽器を演奏しない私が、どちらかというと作曲家とその作品について話すのが大好きだったのにたいして、彼らはそうではなく、演奏する側の人間、つまり指揮者や演奏家の話を好んでしていました。このどちらでの聴き方もできるようになると、愉しい聴き方がよりひろがります。


クラシックは聴かずに「流す」のもよい

 子どもの頃、私は手塚治虫の漫画を好んで読んでいました。そのなかに「音楽のある風景」という短い話があります。たしかどこかの共産圏の小国が舞台で、そこでは政治思想の違いで、あるときから他国の音楽を聴くことができなくなりました。主人公の医師はクラシックが大好きなのですが、それは禁じられた音楽でもあり、悶々とする日々を送っていました。時が過ぎ、ある天才医師が公開オペ(手術)を行うことになり、限られた医師だけが招待されます。会場には手術の模様を映しだすモニターが設置され、いよいよ手術が始まるというとき、禁じられた曲であるベートーヴェン交響曲が大音響で流れだします。そしてその公開オペの執刀医は、あの音楽好きの医師であり、これまで彼が唯一ひとりになれる手術室で、クラシックを流しながら手術をするようになる過程が追想されます。初めは音楽に聴きほれてしまい、手もとがおろそかになるのですが、慣れるにつれ、クラシックを流しながら驚異的な集中力で手術を成し遂げるようになります。公開オペでも、あざやかな手さばきで患部を縫合し、曲のエンディングと同時に手術を終えて、満場の拍手を受けるのです。
 私は子どもの頃は団地に住んでいて、本を読んだりするときに隣の部屋などからのTVやゲームの音が気になりました。あるとき私は、ラジカセを机の右側に置き、クラシックを流しながら本を読むことにしました。初めは音楽に気をとられて、なかなか集中できないのですが、そのうちまったく気にならなくなりました。そればかりか、驚くほど集中できるようになったのです。    
以来、私は雑音が気になる場所で読書をするとき、かならずクラシックを聴きます。ときに読むものによってクラシックの種類を変えたりもします。そんなとき音楽は私にとって空気と同じ存在となり、また読書の良き友となります。長らくクラシック音楽を聴いていると、あらたまって聴くのが面倒だったり、億劫になることもありますが、なんとなく聴き流しているせいで、私はクラシックを、初めて聴く曲も含めて一日に一〇曲以上は聴くことができるのです。
またある種の雰囲気をつくりだすものとして、室内の気を整えたり、雑音をシャットアウトするためにクラシックを流すと、とても心地よい時間が楽しめます。じっさい、いにしえの時代から音というものは、カトリックの教会やお寺の鐘に象徴されるように、周囲の気を鎮めるためのものと考えられてきました。


自分が聴き続けられる仕組みを見つけよう

 クラシックをとことん好きになるためには、自分にいちばん合ったやり方で、無理なく聴き続けられる仕組みをつくることが大切です。そしてそれは自分にとってもっとも簡単で、負担がなく、繰り返しやすい、かつ継続しやすい方法でなくてはいけません。
そのつどFMをつけたり、CDを借りたり、インターネットからダウンロードして、聴くときはいつも一回限りと決めている人は、それでもよいでしょう。ただ、毎日ラジオの時間に合わせて聴くのはなかなか大変です。またCDを借りるにしても、借りに行くのが億劫になったり、インターネットで聴くにしても、ダウンロードが面倒だったり、購入するのにお金が気になったり、どれを聴いたらよいか迷ったりもするでしょう。
いちいち録音するのも手間がかかります。パソコンを使ってデータを移したり、インデックスを作ったりと、けっこう大変です。とくにクラシックのインデックスを作るのは、クラシックが好きな人でもかなり面倒です。インデックスは、ふつうはアーティストと曲名ですみますが、クラシックでは作曲者名と曲名の他、他の録音と区別するために、ときにオーケストラ名や演奏者名まで書き写さなくてはいけません。初めは見慣れない、聞きなれない名前、例えばアムステルダム・コンセルトへボウ管弦楽団とか、ウィレム・メンゲルベルクとか、そんな名前を一字一句間違えずに書くのは、なかなかのストレスです。
そうしてまたクラシックから遠ざかってしまうのは、よくあるパターンです。大切なのは、このつまらないパターンから抜けだすことです。


紙もペンも何も使わず自分だけのクラシック全集を作成する

 私は長年にわたって一日に一〇時間以上ものクラシック音楽を録音し続けていますが、それらはすべて手のひらより小さいカード型の携帯端末に入っています。まずハードディスクとラジオが内臓された、ノートパソコンくらいのサイズのオーディオシステムで録音した後、携帯端末に転送して聴いているのです。それぞれで数万円の投資にはなりますが、自分が毎日いきいきと生活できるわけですから、どこかで元が取れると考えれば、安いものです。クラシックを聴き続けて心身ともに健康になれば、医療費の削減にもなります。
 オーディオシステムは、最初に設定さえしておけば、あとは時間になると自動で起動して、FMのすべてのクラシック番組を、ハードディクスに勝手に録音してくれます。ハードディクスの容量にもよりますが、私が所有しているものでは、一〇年分くらいのすべてのクラシックの番組が余裕で録音できます。
 それだけではありません。携帯端末とオーディオシステムのどちらも、再生する時間帯でおすすめの曲を選んだり、これまで再生した頻度が高い曲から順に再生する機能、録音したばかりの曲から再生する機能、曲の部分を省いて解説の部分だけ再生する機能などがあります。また様々なシチュエーション、例えば晴れた日に合う曲、雨の日に合う曲、ソファで寛ぎながら聴く曲、ダンサブルな曲、情感のある曲、ノスタルジックな曲、アコースティックな曲、エレクトリックな曲、声楽曲、パーティに合う曲、お掃除に合う曲、散歩に合う曲、ジョギングに合う曲、瞑想的な曲、隠れた名曲などを、機器が選んで再生する機能が備わっているのです。
人工知能のような機器にダンサブルなクラシックや、お掃除に合うクラシックを選んでもらうだけで楽しめますが、いつもの自分ならとても聴かない曲を聴かせてもらえるのがいちばんの利点でしょう。自分で選んだ曲ばかりだと、知らず知らずのうちにパターンにはまってしまいますが、機器に選んでもらえば、室内、または屋外で予想外の曲を耳にすることになり、それがまた新たな感動に繋がるのです。

第8章 大好きなクラシックを探しに行こう

インテリジェント・シャッフルで聴くクラシック

 携帯端末には、前にお話したシチュエーション別のランダム再生ではなく、あらかじめ携帯端末に取り込んだ膨大な曲のすべてから、再生する曲を機器が任意に決定して、次々に再生していく全曲シャッフルの機能もついていて、それは私がとくに屋外で頻繁に使うものです。
昔は音楽を聴くときに、まず紙のジャケットからレコードを取り出して、プレーヤーにレコードをセットし、針を落とすという一連の儀式を経ていました。そしてよく聴きなれたレコードほど、私たちは知らず知らずのうちに曲の最初に流れる冒頭、イントロを思い浮かべながら曲が流れるのを待ち、やがて流れだす曲は私たちが先に想起した旋律をなぞる、そんな聴き方だったと思います。レコードからカセットテープ、MD、CDと時代が変わっても、多くの人は無意識のうちにこれから流れる曲を耳の奥に聴きながら再生ボタンを押し、再生された曲は私たちの記憶をなぞる、つまりいつも曲の出だしを「予想」して聴いていたのではないでしょうか。
 私がとくにそう思うのは、携帯端末にある全曲シャッフルの機能で、数千、数万曲という中から機器がランダムに曲を再生していくとき、次にどんな曲が流れるのか予想がつかない状態に、初めはとても違和感をおぼえたためです。設定によって、FMから録音したものは一〇分単位、CDから録音したものは楽章単位で再生されます。その予測不可能な再生は、アルバムの曲順で聴くのでも、また全楽章を順を追って聴くのとも違う印象があり、その時々で聴きなれた曲を初めて聴くような新しさがあるのです。
会社の昼休時間に、私はよく音楽を聴いたものですが、オフィスビルの立ち並んだ交差点で信号を待つようなとき、耳にしたイヤホンから、ふと300年前にバッハが作曲した「平均律クラヴィール曲集」のピアノの旋律などが流れてきて、その灰色の風景と音楽がフシギに融合して異様な印象を醸しだすようなとき、私は思わずその場に立ち尽くしてしまいそうになるのです。


クラシックは「本日のランチ」

 ランチタイムは、一日のなかでも心躍る時間ですね。お弁当にしても外食にしても楽しいものですが、例えばいつもの店でも、ランチメニューがあるだけで、今日はどんなものかなとワクワクします。Aランチ、Bランチなどから選べれば、偏食を避けられそうな気がします。また、いつも食べないものを食べたら意外においしいと思ったり、とてもいい気分転換になります。自分で決めていることは、気がつかないうちにパターン化してしまっているためです。
 いつも聴いている音楽もまた、パターン化から逃れられません。ある特定のジャンル、歌手やアーティストが好きでいつも聴いていると、もう何年もそんな曲ばかり聴き、それに合わせるように生活パターンも変わらないというのは多々あります。すると、そこから変わったり、これまで知らなかった新しいもの、もっと好きになれるものに出会うチャンスをも失ってしまいます。
 これはクラシックにもあてはまります。食わず嫌いならぬ「聴かず嫌い」で、日頃ほとんど聴かない音楽でも、少し聴いてみると新たな発見があり、好きになったりするものです。
 私は三十五年にわたってクラシックを聴き続けていますが、いまだに初めて聴く曲があるほど、クラシックの世界は広大です。人類が500年ほどのあいだに作曲した純器楽曲、声楽曲すべてをさすのですから、当然ともいえるでしょう。携帯端末のシャッフルの機能を使うと、かつて聴いたことのない曲、いつも聴かない曲が次から次に出てきますが、つい私は自分の好きな曲が出てくるまでボタンを押して先送りしてしまいがちです。でも聴きなれない曲が出てきたとき、何かに「この曲を聴いてください」と言われているように感じて、そのまま聴き続けることもあります。あまりなじみのない、食べたことのないメニューでも、少し聴き続けてみると、とてもよい曲だったりするわけです。
 日頃あまり行かないような店で、いつも食べないものを食べて、ふだん聴かないようなBGMに耳を傾けるようにクラシックを聴くと、新しい世界がどんどんひらけていきます。


そしてCDショップへ

 クラシックとの多くの出会いをかさねていくほどに、また聴きたいと思える曲がたくさん見つかるようになります。ただそんな曲が、膨大なクラシックのレパートリーのなかからタイミングよく再びFMで流れるのはまれですし、CDもレンタルで借りられるものではなかったりします。そのときに、CDを購入します。現在はインターネットからダウンロードもできますが、クラシックではネットでダウンロードして聴ける曲にも限りがあるのです。その曲やアルバムを聴くには、いくつものメリットからCDをお薦めします。
このあたりまで来ると、自分の好みがわかってきますし、買って失敗することも少なくなります。私はクラシック専門のCDカタログを何冊も持っていて、聴きたい曲があると、品番だけ控えて大きなCDショップへ行って、購入したり、注文したりします。
ただ店舗になかったり、注文しなくてはいけなかったり、店員さんも知らないようなきわめてレアなものは、初めからインターネットの通販でCDを購入したほうが早いこともあります。


店員さんとのコミュニケーションを楽しむ

CDショップで買うメリットは、やはり店員さんとじかにコミュニケーションがとれることでしょう。クラシック専門の売場をもつCDショップには、比較的クラシックに詳しい店員さんがいるので、いろいろ教えてもらえます。私も店員さんからの情報で、新たに聴くようになったり、前にお話したように演奏会へ行くきっかけとなった曲がいくつもあります。常連になると、こちらの好みを知って薦めてくれたりもします。またクラシックのコーナーにも、店員さんの手書きによる推薦文が記されたPOPがいくつも立っていて、それに目を通すだけで楽しいものです。
店員さんには、私はかつての仕事のつながりで知人もいるのですが、男性なら40代から50代くらいの人に詳しい人が多いため、ちょっとマニアックな探しものがあるときや、急いでいるときは、できれば最初からそういう人をつかまえて、相談したほうがよいでしょう。  
女性の店員さんは、私の知人では二十代がほとんどでしたが、かつてトランペットをやっていたとか、声楽をやっていたとか、大ざっぱにいうとクラシック畑にいた人が多かったです。なかにはクラシック専門店を渡り歩いている人もいます。盛衰の激しいCD業界では、よく店舗が縮小になったり、なくなったりするのは珍しくなく、その度に販売員は別の店舗へ移ります。ですから彼女たちはクラシック全般の知識があるだけでなく、業界についても熟知しています。たとえマニアックな知識はなくても、手をつくして熱心に探してくれます。
余談ですが、彼女たちのなかには、まわりにクラシックを聴く男性がいないと思っている人や、仕事の後は派手な服に着替えて合コンへ行く人もいたりと、あたりまえですがみんな普通に出会いを求めています。男性の方は、迷惑がかからない程度にいい常連になってコミュニケーションを楽しんでください。


季節でクラシックを聴きわける

 私には毎年その時季になると、きまって耳の奥から聴こえてくる曲がいくつもあります。それは夏のひぐらしの鳴声や花火の音、秋の虫のすだきなどと同じく、その季節特有の空気によって想起される思いでの曲でもあります。風物詩のようなものなので、私の大好きな曲のなかには、あえて一年に一度、その季節にしか聴かないと決めている曲もいくつかあります。そんな聴き方には賛否があるかもしれませんが、今年もこの季節がやってきたと、今を生きている自分をより実感できるのです。ほとんどの場合、私がその曲に初めて出会った季節か、よく聴いていた時季になるのですが、いずれもそのときFMで知った曲であることから、私だけでなく、多くの人にとってその季節にぴったりと思えるクラシック、つまりクラシックの季節感というものがあるのかもしれません。気のせいかもしれませんが、毎年その時期になるときまってFMで取り上げられる曲、演奏会プログラムで取り上げられる曲があるように感じます。ここに、私がその季節になると聴きたくなる曲をご紹介しますので、ぜひ参考にして、あなただけの季節の曲を見つけてください。

一月 エルガー交響曲第1番」
マーラー交響曲第3番」
メンデルスゾーン交響曲第3番 スコットランド

二月 プーランク「オルガン協奏曲」、「ピアノ協奏曲」。
ショスタコーヴィチ交響曲第一〇番」、「ピアノ協奏曲第1番・第2番」
ブルックナー交響曲第5番」

三月 ショパンピアノソナタ第2番・第3番」
フランク「交響曲ニ短調

四月 チャイコフスキー「ピアノ協奏曲第1番」
ベートーヴェン 「コリオラン序曲」、「交響曲第8番」
シューマン交響曲第3番 ライン」
ドビュッシー「ベルガマスク組曲より 月の光」、
組曲 子供の領分より グラドゥス・アド・パルナッスム博士」
ヘンデル「水上の音楽」、「王宮の花火の音楽」
シベリウス交響曲第1番」、「交響曲第2番」、「交響曲第5番」、「ヴァイオリン協奏曲」

五月 JSバッハ「マタイ受難曲
シューマン「ピアノ協奏曲イ短調

六月 ハイドンピアノソナタ全曲」
ショスタコーヴィチ交響曲第5番 革命」
ドボルザーク交響曲第9番 新世界より」、

七月 チャイコフスキー「弦楽セレナーデ ハ長調
チャイコフスキー交響曲第6番 悲愴」

八月 グリエール「コロラトゥーラ・ソプラノと管弦楽のための協奏曲」
コルンゴルト「バイオリン協奏曲」
チャイコフスキー交響曲第5番」
     チャイコフスキー弦楽四重奏曲第一番」

九月 モシュコフスキ「ピアノ協奏曲ホ長調
マーラー交響曲第9番」
ブラームス交響曲第1番」、「交響曲第4番」、
チャイコフスキー交響曲第5番」

十月 ラフマニノフパガニーニの主題による狂詩曲」
リムスキー・コルサコフ「交響組曲 シェエラザード
バルトーク「ピアノ協奏曲第3番」
マーラー交響曲第一〇番」
ブラームス交響曲第3番」、「チェロソナタ第2番」
エルガー「チェロ協奏曲」、「ヴァイオリン協奏曲」
チャイコフスキー「幻想序曲 ロメオとジュリエット」、
ワーグナータンホイザー序曲」

十一月 ピアソラ「タンゴ組曲」、「ブエノスアイレス午前零時」
ブラームス「アルト・ラプソディ」、「ヴァイオリン協奏曲」
      ブルックナー交響曲第8番」

十二月 ラヴェル「ピアノ協奏曲ト長調
チャイコフスキー「バレエ くるみ割り人形」、「ヴァイオリン協奏曲」
ベートーヴェン交響曲第9番 合唱付き」
アイスラー「ハリウッド・ソングブックより 小さなラジオに」


クラシックは東北の旅先で聴く

 私は学生の頃によく一人旅をしました。旅をしているときはたいてい本を読んでいる私にとって、移動は列車が好都合でした。本を読んでは車窓の向こうに目をやり、また本に戻る。前にもお話しましたが、それを繰り返していると、風景がよりリアルに立ち現れてくるのです。そうして私は多くの本を読み、音楽も聴きました。
 クラシックはヨーロッパの寒い地域や、山や森、湖に囲まれた自然豊かな場所で生まれた音楽であるせいか、私は個人的に日本の、とくに東北の風土にとてもなじむように感じています。クラシックというと、室内で聴くイメージがありますが、ときに屋外へ持ち出して聴くことで、新たな発見があります。自然のなかでクラシックを聴いて、自分だけの思いでの曲を見つけるのも楽しいものです。ここで参考までに、私がじっさいにその土地で聴いて、季節の風景にとても調和していたと感じられた曲を、東北に限定して紹介します。

青森 十一月の鯵ヶ沢 
------ブラームス「運命の歌」

秋田 十一月の五能線沿線
------シューマン「ヴァイオリンと管弦楽のための幻想曲」

   初夏から晩夏にかけての田沢湖
------マーラー交響曲第5番」第4楽章

岩手 七月上旬の昼下がりの岩手山麓 
------シューマン交響曲第2番」

山形 二月上旬の雪深い銀山温泉 
------デュカス「交響曲ハ長調

宮城 十月の紅葉に包まれた鳴子温泉郷 
------ブゾーニ「ピアノ協奏曲」第1楽章

新潟 盛夏の越後関川峡 鷹ノ巣温泉 
------ハイドンピアノソナタ」全曲


心が欲する曲に耳を傾ける

 日常の何げない瞬間にふと「○○が食べたい」なんて思うことはありませんか? いつもならほとんど食べないものなのに、しかもとくにおいしそうなものを見たり聞いたりしたわけでもないのに、急に食べたくなるといったようなことが。もしかすると、これは無意識のうちに心と体がそれを食べることを欲しているあらわれなのかもしれません。
 音楽でも同じようなことが起きます。かつてよく聴いていたのに、しばらく聴いていないような曲が、何かのサインのように耳の奥から聴こえてくる。とくにクラシックをたくさん聴くようになると、ふと何かの旋律が思い起こされたり、鼻唄となって出てきたりします。
そんなとき、私は実際にその曲の録音を聴くようにしています。すると、なぜかとても心が落ち着いたり、おもしろいアイディアが浮かんだりするものです。
 心の声にたえず耳を傾け、心が求めるものを感じ、それを受け入れることは、自分がほんとうに好きなもの、楽しいと感じられるものを知ることです。そしてそれは私たちがしあわせであるために不可欠な行為なのです。


第9章 クラシックの会話を楽しもう

「クラシックよく聴きます」で気をつけること

 私たちがクラシックを好きになって得られる大きなしあわせの一つは、友人や恋人、結婚相手との出会いです。少しずつクラシックを聴くようになり、あなただけのお気に入りの曲や、大好きな作曲家がわかったら、今度は誰かと会話を楽しんでみたくなりますね。ここでは、そんなときに気をつけたほうがよい、いくつかのポイントをお話ししましょう。
 長年クラシックを聴いていると、ちょっと話をしただけで相手がどれだけクラシックに精通しているのかが一瞬にしてわかってしまいます。例えば相手の人が「クラシックをよく聴く」と言っても、少し話をすれば、話の切りだし方、よく聴く作曲家、演奏家、曲名、どこでどんな演奏会をどれだけ聴くか、また作曲家によって違う作品番号、音楽用語の発音などから、相手の人がほんとうに「クラシックをよく聴く」のか、わかってしまうのです。それだけでなく、どれだけ好きかもわかってしまいます。


「クラシックが好き」は「好きでも嫌いでもない」と同じ

よくこちらに話を合わせるように、「私もクラシックよく聴くんですよ」とか、「クラシックが好きなんです」という人は多いのですが、たいして聴かなかったり、それほど好きでもないのであれば、話を合わせようと取り繕っていたり、嘘をついているのがバレてしまい、かえって恥をかきます。言葉というものは、使い過ぎるとインフレを起こす特性があります。私たちは日頃から、あまり意識せずにいろいろなものに「好き」という言葉を当てはめます。そのため、ただ「○○が好き」というと、相手にはかなり目減りして伝わり、とくにあえて言うほどの意味もないという場合もあります。ほんとうにクラシックが好きで、聴いている人は、それをそのまま言葉にするのは少ないでしょう。話すとしても、どれだけ好きで、聴いているのかがわかる話やエピソードを間接的に伝えることで、相手にわかってもらおうとします。
もちろん、本書を読んでほんとうに聴きはじめた人は、そんな細かいことは気にしなくてよいですし、何も心配はいりません。聴きはじめたという事実をありのままに話せば、相手がどんな人であれわかってくれます。問題は、それほど聴かないし、好きでもないのに、いたずらに話をふくらませてしまうと、相手にあまりよい印象を与えないということなのです。そういう人がもし言うのなら、「クラシックは聴きたいと思っているんです」とか、「もっと好きになりたいんです」などと言ったほうがはるかに好印象で、こちらも「ではチケットがあるので差し上げます」ということになります。


何でも知っているという態度は究極のタブー

やがてクラシックをよく聴くようになる人にも、気をつけたほうがよいポイントがあります。それは、何でも知っているという態度をとる人で、これはもっと恥をかきます。二十歳くらいのときに、私はある楽器メーカーのCDショップにあるクラシックコーナーに足繁く通っていたのですが、そこにはいつも五十歳前後の男性店員がいて、常連と思しきお客さんとかなりハイレベルの話をしていました。とてもクラシックに詳しそうな人で、外見的にもちょっと高圧的なイメージもあり、私は探しているCDがあっても質問するのに気後れがして、いつも一人黙々と探していました。あるとき、客もまばらな店内で、私がいつものように目をこらして棚を隅から隅まで探していると、彼は初めて私に「何かお探しですか?」と声を掛けてきました。私は、そんなものを探しているのかと思われる気がして、ちょっとはにかみながら、ためらいがちに「ワーグナーの曲を探しています」、といいました。彼は「ふむ。ワーグナーのどの曲ですか?」というので、「ワーグナーの、交響曲です」と答えました。すると彼はすかさずこう答えました。
ワーグナー交響曲はありませんよ」。
リヒャルト・ワーグナーは楽劇の帝王としてのあまりの有名高名さから、その主要作品もオペラや歌劇、楽劇などが知られていて、ほとんどがCDに収録されています。日頃からCDを専門に扱っている人には、その主要作品以外のものは、あまりなじみがなかったのかもしれません。
当時の私はワーグナーに心酔していて、楽劇以外の作品も聴いてみたいと思い、交響曲のCDがあるらしいというのもあらかじめ調べていました。交響曲ハ長調は、ワーグナーが十九歳のときに完成させた唯一の交響曲で、私はぜひその曲を聴いてみたいと、録音を探していたのです。他にも二曲の交響曲があるのですが、いずれも未完に終わっていて、交響曲の作曲家を目指していた若き日の彼に、音楽を通じてふれてみたいという気持ちがありました。店員さんにあまりにはっきりと、自信をもって言われてしまった私は、そのとき自分の知識が間違っていると勘違いし、そそくさと店を出ました。


気楽に話してもよいと思えたとき

 そんなことがあってから、私は逆にその店員さんと気楽に話せるようになりました。いくら詳しそうに見える人でも、知らないことはいくらでもあるのを知ったからです。以来、私は何の遠慮もなく彼にいろいろ質問するようになりました。態度も大きくなってきて、こんな曲を探していると言ってその場でアカペラで歌ったり、店にウォークマンを持って行って、何の曲なのか教えてくれと言い、彼の耳にイヤホンをつっこんだりしました。はじめは彼もしぶしぶながらそれを聴き、でもやはりそこはプロなのでしょう、メジャーな曲のほとんどは的確に答えてくれました。
 クラシックに限らず、ものごとは知れば知るほど、わからないこともふえていきます。多くの曲を聴いていると、私はいまだに、毎日新しい曲や知識と出会い続けています。それは例えるなら、いくら年齢を重ねても、毎日出会う人は、人生で初めての人というのに似ているかもしれません。こんな人もいるのかと、その度に驚きをおぼえ、人生の深さを感じます。大切なのはその自覚であり、そこからうまれる謙虚さだと思います。


第一〇章 クラシックが引き寄せる人との出会い

クラシック好きな人がいないという壁

みなさんはいつかこう思われるかもしれません。「どうもほんとうにクラシックが好きな人がまわりにいない」と。これは経験した人にしかわからない、ちょっとした壁となります。ここでは、そんな壁があるんだ、くらいに覚えておいてください。
 このつぶやきは、クラシックを聴けば聴くほど自分に対してするようになるでしょう。今でこそクラシックを聴く人は以前よりもかなり増えつつありますが、Jポップなどに比べると、とくに身近というほどでもないのが現状です。初めは「どうもクラシックが好きそうな人がまわりにいない」と思うのですが、クラシックについて語り合いたいと思うほど、ささやかな希望が裏切られるみたいに感じられ、少し落ち込んでしまうかもしれません。これはしかたがないことで、次にこの対処法についてお話しましょう。


出会いを引き寄せる心の対処法

 人は落ち込むと、なかなかポジティブにはなれません。私たちは日頃から自分に対して無数の質問を繰り返しているのですが、その質問も「どうしてクラシックを聴く人が見つからないのか?」とネガティブになりがちです。ただその質問をしてしまうと、「どうせクラシックなんて聴く人はほとんどいないよな」とか、「そもそもクラシックで人と知り合うなんて無理なんじゃないか」、そして「さみしいけど自分だけの趣味として生きていくしかないじゃないか」と、ネガティブな答えばかりが重い鎖のように次々に出てきます。私はこれも日本でクラシック文化がいまひとつ開かれていない原因ではないかと考えています。そればかりか「どうしてみんなクラシックを聴かないのか」といった、考えてもしかたがない想念まで飛びだします。
 ネガティブな質問をすると、考えてもどうしようもないことばかりが出てくるのです。よく小説などに、暗い情念が意識の流れにそってあてどなくさまようというものがあり、読んでいて気分が悪くなるだけでなく、ネガティブな影響を受けてしまいそうになりますね。
落ち込んでいるとき、私たちはかならずといっていいほどネガティブになっています。そのときの対処法は、自分がネガティブになっていることに気づいて、質問を変えるだけでよいのです。「どうして」ではなく、「どうしたら」に変える、「WHY」ではなく「HOW」にして、「どうしてクラシックを聴く人が見つからないのか?」を「どうしたらクラシックを聴く人が見つかるのか?」に変える。すると、「ちょっと調べてみよう」とか、「いろいろな人に話しかけてみては」とか、「何かのサークルにアプローチしてみよう」とか、私たちが今すべき具体的なことが次々に浮かんでくる筈です。こういうことを習慣にすることで、ちょっと中級になると、「ではクラシックを聴く人を見つけようとするなかで私が得られるものは?」などといった質問も絡ませられるようになります。すると、「それはこれまでにない新たな出会いです」という答えが聞こえてくるでしょう。


クラシックを語り合える人はどこにいる?

私たちは自分の身のまわりにいる人について、どれほど深く知っているでしょうか。よく知っているかというと、そうともいえない場合がほとんどです。職場の同僚はもちろん、友人たち、さらには長年付き合いのある人や、家族や恋人でさえ、今どんな音楽を聴いているかわからないこともあるでしょう。かつての私もそう思い込みがちだったものですから、いろんな手段でクラシックが好きな人を探した経験があります。でもなかには、意外に近いところにいた人がクラシック好きだったというケースもあります。
もともとクラシックが好きな人や、クラシックを好きになる人は、どちらかというと一人でじっくりと何かを考えたり思ったりするのが好きな、内向型人間の可能性があります。あまり積極的に人と関わろうとはせずに、人と距離を置こうとするため、趣味を共有するにもハンディがあるのです。まずは身近なところから、まわりにいる人に、自分がクラシック好きなのを、いつもよりちょっとアピールしてみましょう。予想もしない人が、あなたに話しかけてくることがありますので、楽しみにしてください。


ネットを使わずにクラシック好きな人を見つけるには

 近頃はインターネットやSNSの普及で、かつてよりも同じ趣味を持つ人がいともかんたんに見つけられるようになりました。「クラシック好きな人もフェイスブックツイッター、ラインなどで見つけてください」といえば簡単ですし、はっきりいってそれがもっとも確実なやり方で、そこで話が終わってしまいます。ただ、それだとネットを使わないクラシック好きには出会えませんし、みなさんのなかにはネットを使わない方も多くいらしっしゃいます。ネット上で見ず知らずの人と知り合いになることに抵抗のある方もいらっしゃるでしょう。
そもそもこの本の目的は、クラシックとその周辺へいかにかんたんにたどり着けるかだけではなく、人との出会いなども含めて、その道のりをもいかに愉しめるかがメインになります。ですからここでは私の経験もまじえて、一般の人がなかなか思いつかないであろう手段を使って、クラシックが好きな人を見つける方法をいくつかご紹介しましょう。


どんなところにも情報は隠れている

 かつて私は、自分のまわりにクラシックについて話せる人があまりにいなかった(と思い込んでいた)ので、見つけるのをほとんどあきらめていた時期がありました。私はクラシック音楽専門の輸入販売会社につとめる前に、海外ドキュメンタリー番組の字幕翻訳の仕事をしていて、通訳や翻訳に関する雑誌を何冊か定期購読していました。翻訳はたいてい一人で行う地道で孤独な作業なので、情報交換したり、ときには悩み相談などできる相手がいると心づよいものです。そして私が読んでいた雑誌には、他の雑誌や情報紙などにもよく見かける読者ページがあり、まれに目を通していました。
 まれに目を通すくらいなので、ときには重要な情報を見逃してしまうこともありました。あるときに何げなく過去のバックナンバーを見ていたら、その読者ページに、地元の仙台で翻訳の勉強をしているという学生からの投稿記事がありました。なんと翻訳のことや、好きなクラシックについて話せる友人を募集しているというのです。しまったと思いながらも、記事に記された住所が当時私が住んでいた場所から近く、知り合いになれるかもしれないと考え、すぐに手紙を書きました。当時はメールのやりとりが現在ほどひんぱんではなかったので、手紙を郵送したのです。
 ほどなくして私のポストに、郵送した手紙が宛先不明のまま戻ってきました。かなり前の投稿だったので、その学生はすでに転居していたのかもしれません。私はそのとき、情報はいつも気をつけていないと、目の前を通り過ぎてしまうことを知りました。


私が週7人のクラシック好きな女性と知り合えた理由

そんなことがあったせいで、私は以前よりもその読者ページを熱心に見るようになり、いつしか自分で投稿しようと考えました。そして仙台で翻訳の仕事をしていること、情報交換などできる人を探していること、そして最後に一言、クラシック音楽が好きだと付け加えた簡単なプロフィール文を作り、手紙を雑誌の編集部に郵送しました。
 それからしばらくして、雑誌に私の友人募集の記事が掲載されているのを見つけて、どこか気恥ずかしい気持ちと、翻訳雑誌の募集記事などに目をとめる人なんて少ないだろうと、なかばあきらめの気持ちでいました。
 雑誌の発売から数日後、私のポストに一通、二通と手紙が届き始めました。郵送元は群馬、東京、京都、徳島と、日本のさまざまな地域の地名が記され、性別も限定したわけではないのに、男性はたったの一人で、十数通届いた手紙はすべて女性から、しかも手紙に目を通すと全員が二十代でした。職業もさまざまで、東京の大学院の博士課程でフランス文学を研究する学生、在宅で司法試験の通信講座の仕事をするフリーランス、ピアノ講師をしながら趣味で陶芸をしている人、消費者金融に勤めながらウクレレを演奏するOLなどで、そんな人たちがマイナーな翻訳雑誌を読んでいるという驚きはもちろん、彼女たちがみんなクラシックが大好きで、その感動を分かちあいたい、それでいてまわりにクラシックを好きだという人がいないと思っているようでした。
 日本各地からの手紙は次の雑誌が出てからもしばらく続き、数えられないくらいになりましたが、私はそのすべてに返事を書いていました。メールでのやりとりもできたのですが、私はあえて手紙を書いて、彼女たちもそれに応えるように手紙を返してくれました。しかし仕事をせずにそればかりしているわけにもいかず、やがて返事を書くのが追いつかなくなりました。こちらから募集をしておきながら、勝手だとは思いつつ、手紙のやりとりをする人を7人にしぼらせてもらいました。理由は、一日一人に返事を書けば、なんとか一週間以内に返事ができるという単純なものでした。


日本各地の女性とクラシックについて語りあった数年間

 それから彼女たちとの文通は数年にわたって続き、何人かの女性とは東京などでじっさいに会って、クラシックだけでなく、いろいろなことを語りあいながら、楽しく食事したりもしました。そんなときにどうして手紙なのか訊かれることもなく、彼女たちはユニークなレターセットや切手を使ったり、手紙にフエルトで作った動物柄のプリントを貼ったりして、簡素なメールの送受信より逆に新しさを見いだして、楽しんでいるようでした。そういうのを見ていると、何ごとも楽しいものにしてしまう能力は、男性より女性のほうが優れていると思えます。フランス文学の研究生とは、クラシック以外にも文学の話などもしましたが、ちょうどその頃、『妻への恋文』というフランス文学の翻訳本が刊行されたばかりで、その翻訳者が彼女の出身大学の教授だったこともあり、まるでお互いに恋文をやりとりするように手紙を書くのを楽しんでいました。
 もしメールだったら、ただたんに「あの音楽が好き」「あの作曲家が好き」というだらだらした話だけで終わっていたかもしれません。手紙はモノとして手に取れるせいか、メールにはない独特の魅力と、ある種の緊張感がともなうように感じられます。電子情報のメールとは違い、物質として残るせいもあり、いい加減なものは書けないし、送れないという気持ちもあって、私はいちど書き終えてもすぐには投函せず、しばらくおいては読み直し、さらに書き直して、一通の手紙を書くのにかなりの時間をかけていました。そしておたがいに、どんなとき、どのようにクラシックを楽しむか、心に残る演奏会、名器の響きとはどんなものか、また印象深い巨匠のエピソードなど、およそクラシックに関わるあらゆることについて語り合いました。
 みなさんにはここまでは求めませんが、クラシックの魅力を知ってしまうと、その世界もどこまでも深いものになり、それが縁で知り合う人との関係もまた、深くなっていくのです。


クラシックが縁で贈りあったギフト

 ふだんめったに会うことがない彼女たちとは、おたがいの誕生日やクリスマスなどにはプレゼントのやりとりもしました。好きなクラシックのCDや、楽器をモチーフにした小物などを贈りあうのが多かったのですが、クラシック好きなだけあって、彼女たちの選曲はさすがと思わせるもので、私はそれがきっかけで多くの名曲に出会いました。今でもその曲を聴くたびに彼女たちとのことが思い出されて、クラシックが縁となった出会いの素晴しさを思います。
またそんなやりとりが、おたがいの人生に意外な影響を及ぼしているのが、後になってわかりました。彼女たちの一人にピアノ講師をしていた人がいたのですが、あるとき私に、趣味で陶芸を始めたと伝えてきました。そして何かの折に私は彼女にかなり分厚い陶芸の写真集をプレゼントしたのです。彼女はとても喜んでいたようで、いい刺激になったとも話していました。そしてそのうち彼女は陶芸の個展を開くまでになり、やがて陶芸家として活躍していくことになるのですが、クラシックを好む彼女の繊細な感受性が作陶にもじゅうぶんに生かされたのでしょう。彼女の人生の転機に、少なからず私も関わっていたのかもしれない、そう思えるのはうれしいものです。
 やがて彼女たちが結婚したり、外国へ行ったり、さまざまな理由でやりとりがなくなっていきましたが、彼女たちのことは今でも懐かしく思い出され、クラシックが引き合わせてくれた縁に、感謝せずにはいられません。ときどき、もし彼女たちと結婚していたら、どんな曲を結婚式に流すのだろうと、ふと思ったりもします。

第十一章 ウェディング・クラシックで人生最高の一瞬を

はたして著者はクラシック好きな女性と結婚できたか

 みなさんは、このような本を書く著者が、いったいどんな女性と結婚する、あるいはしたと思われるでしょうか。パートナーは、やはりクラシックが好きだったり、それに関わる仕事をしている女性だろう、と考えられるかもしれません。私もそう思っていました。
 私が結婚した人は、まったくクラシックを聴かない人です。それどころか、聴くジャンルもまったく違います。これが人生のおもしろいところでしょう。かつて私は、クラシックが好きな人と結婚したいと思っていて、そんな人を探していたのですが、結婚したいと思った人はクラシックを聴かない人だった、ということです。
 この本を書いたきっかけの一つは、まったくクラシックを聴かない彼女に、少しでもクラシックを好きになって、その楽しさや素晴しさをわかってもらいたいとの気持ちがあったからでした。もしかすると、クラシック好きな私が、まったくクラシックを聴かない女性と結婚したのは、後にこのような本を著して、彼女と同じくまったくクラシックを聴かない多くの人に、クラシックを通しての喜びを伝えることが、ライフワークであり、使命だったからではないか、そんな大げさなことを考えたりします。
 まったくクラシックを聴かない女性と結婚するにあたり、私は彼女に一つだけお願いをしました。それは、「結婚式をクラシックの名曲で飾る」というものです。なんだか男と女が逆転したような話ですが、私はそれほどクラシックが好きなのです。
 もっとも、結婚式は女性にとっての夢の舞台です。しかもまったくクラシックを聴かない彼女には、とうてい聞き入れられるものではありません。けっきょく、結婚式を第一部と第二部に分けて、第一部にクラシックをメインに流し、お色直しをはさんだ第二部で彼女が好きなジャズ・ボーカルの曲などを流すことになりました。


生涯に一度の結婚式だからこそクラシックを

 結婚式は、そう何度もあげられる人はなかなかいませんね。まったくいないこともないのでしょうが、ふつうは一度かぎりのものです。そんな特別なシーンで、しかも多くの人をもてなす場では、不特定多数の耳に心地よい、ときにうったえかけられる、そんなオールラウンドで懐の深い音楽が求められます。けっしてそのとき流行っている歌謡曲がいけないというわけではないのですが、さまざまな年代の、いろいろな好みを持つ人々が参列する式においては、曲によって違和感や嫌悪感を示す人もいるでしょう。
結婚式そのものが、歴史とともにあるクラシカルな儀式なので、その演出にもクラシカルな要素があると、やはり安定感が違います。人々が数百年にわたって好んで聴き続けてきた、これ以上はないほど普遍的な音楽を用いれば、この曲は受け入れられるだろうかといった余計な心配がなくなり、それだけ余裕をもって自分たちの結婚式を楽しむことができ、結果としてそんな二人をより惹き立てることにもなるのです。
 ではここで、結婚式で誰もがなっとくするクラシックの名曲と、またそんな曲をどのように式に当てはめていけばよいか、著者の実例をもとに詳しくお話していきましょう。ちなみに挙式はパイプオルガンと聖歌隊の付いたプロテスタントの教会で行うものとし、披露宴会場は英国調で茶色を基調とした落ちついた雰囲気、二階から一階にかけてゆるやかな階段があり、列席者は両家合わせて一〇〇名ほど、という想定でお話します。

 


教会への入場あるいは挙式後のフラワーシャワー
------「ワーグナー オペラ「ローエングリン」より《婚礼の合唱》」

 いわずと知れた二大結婚行進曲の一つです。この曲はオペラの劇中歌のため、合唱が入ったものと、パイプオルガンのみで演奏されるものなどがあり、どちらを選んでも間違いありませんが、教会への入場に使う場合、式場にあらかじめパイプオルガンや聖歌隊が付いているなら、選曲をその式場のオルガにストに委ねて、この曲を挙式後のフラワーシャワーで使うのも一つの方法です。ちなみに私の場合、教会への入場はパイプオルガン奏者による生演奏で、曲目はオルガニストに任せました。新郎、新婦ともに違う曲を演奏してもらい、あまり聴いたことのなかった曲に、かえって感動したということもあります。
私は《婚礼の合唱》を挙式後のフラワーシャワーで使いましたが、ここで留意する点があります。オペラのCDから直接録音したものだと、しだいに盛り上がっていく曲の性格上、初めのほうの音量がやや低く、響きわたる鐘の音や列席者の祝福の言葉などでかき消される可能性があります。音源はよく聴こえるものを用意し、プランナーの人とも相談しましょう。
曲を流すタイミングは、挙式を終えた二人がチャペルから現れる準備ができたら、扉が締まった状態で流し始めます。初めは序奏が流れるので、開始から二十一秒くらい経って、曲の主題が現れるくらいにチャペルの扉が開くようにします。新郎新婦が現れ、牧師の言葉、鐘の音に続いて歩き、ゆっくりと階段を降ります。荘重なテンポで奏される、5分35秒の曲を最後まで流すことで、結婚式でしかあじわえない特別な雰囲気を最高に高めてくれるでしょう。
 結婚式で私がこの曲を選ぶことができたのは、私の結婚相手がほとんどクラシックを聴かないため、この歌劇を知らなかったせいもあるかもしれません。《婚礼の合唱》は、歌劇の主人公カップルが結婚するしあわせなシーンで合唱されるのですが、その後にやや冷酷とも思える主人公ローエングリンが、約束を破ったとして女のもとを去ってしまうというストーリーになっています。私がこの曲を選んだのは、「負の先払い」のような考えからで、私たちはそんなことで別れることがないようにという意図があったためです。また私にもやや冷たいところがあり、一度約束を破ったくらいで相手を罵って別れるローエングリンのような男にはならないようとの気持ちもありました。いずれこの曲を結婚式で使おうが使うまいが、別れる人は別れるし、別れない人は別れないのですから。
 いずれにしてもこの曲には、歌劇のそんな背景を知っていたとしても、流さずにはいられないほどの魔力があるように思われます。

 

 

 


迎賓
------「エルガー 行進曲《威風堂々》 第1番、第2番、第3番、第4番」

 教会から披露宴会場へ入る列席者を迎える曲です。披露宴会場が英国調で、私が式をした頃はロンドンオリンピックの開催時期とも重なっていたせいもあり、イギリスの作曲家としてエルガーを選びました。曲はいやでも祝祭的な雰囲気を盛り上げるものですが、音量はうるさくならない程度にやや抑えめに、しかし低すぎず、というくらいで流すとよいでしょう。迎賓の時間はだいたい二十分くらいなので、第1番が六分十五秒、第2番が五分十七秒、第3番が六分六秒、第4番が五分十五秒、トータルで二十二分五十三秒となり、ちょうどよい長さに収まります。


披露宴会場への新郎新婦入場
------「メンデルスゾーン 劇音楽「真夏の夜の夢」より《結婚行進曲》」

 パパパパーンのファンファーレで始まる、「ウェディング・クラシック」の王道テーマです。まるで結婚式のためだけに作られたような曲で、結婚式にしか似合わない曲であり、そのため結婚式でしか演奏されない曲は、この曲をおいて他にありません。日本では年末に聴く第九や、大晦日に聴く除夜の鐘のような地位を築きつつありますが、正統派をアピールするなら、この曲を使わない手はありません。この曲が流れると、誰もが襟を正さざるをえない、唯一無比の曲だからです。ワンパターンと思われる方もいるかもしれませんが、有名なドラマに見られるシーンや展開のように、それなしではどうもしっくりこない予想されたものこそ、じつはみんなが待ち望んでいたりするのです。
 私の結婚式は、奥さんの仕事の関係で、夏にあげました。この劇音楽のタイトルが「真夏の夜の夢」なので、まさに私たちにぴったりだと思ったのも、この曲を選んだ理由の一つです。そしてこの曲を、結婚式での重要なシーンの一つでもある、披露宴会場への新郎新婦入場で使うことにしました。
 この曲を二人の入場に合わせてうまく流すには、いくつかのポイントがあります。まず、披露宴会場のメイン扉から二人で入場するとして、扉を締めたままの状態で音楽だけを流します。冒頭のパパパパーンのファンファーレが響きわたり、それから七秒経過して曲の主題が奏されるのと同時に、メイン扉を両開きにオープンするよう指示します。扉の向こうに二人が登場し、会場の列席者のみなさんから祝福の拍手をあびながら、曲の開始十三秒から十七秒経過するまでの四秒間で深く一礼します。そして二回目のパパパパーンのファンファーレが再現される十八秒目に二人で歩き出します。歩くテンポは、きわめてゆっくりめにして、四分三十九秒の曲を、なるべく長くかけられるように、会場のみなさんに会釈しながら、できるだけ長いルートを歩きます。ようやく高砂席へたどり着き、二人で着席したところで、ゆっくりと曲をフェードアウトしていきます。


乾杯の合図から歓談へ
------「ヘンデル 《王宮の花火の音楽》より序曲」

 ここでこの音楽を使ったのは、あるおもしろい理由からです。これから行われる披露宴が終わったら、夜のガーデンパーティへ列席者のみなさんをお誘いして、そこで最後の乾杯をするのとほぼ同時に、夏の夜空に大型の花火を三十発ほど打ち上げる予定なのですが、これは誰にも知らせていません。披露宴の始まりを告げる乾杯の発声と同時に《王宮の花火の音楽》を流すことで、「乾杯の後に花火」というのを暗号として使い、後に訪れるサプライズの伏線にしようという、私なりの遊び心もてつだっての演出でもありました。このように、結婚式とはとても大掛かりで手間のかかる、壮大な自己満足の世界でよいのです。
 序曲は豪華絢爛な曲調で、ただ流すだけでもよいのですが、さらに効果的にするために、何らかの仕掛けがあってもいいでしょう。あらかじめ司会者から列席者に、乾杯の後に大きな拍手をするよう伝えてもらい、乾杯の合図に続いて、列席者が乾杯した直後に曲が流れます。すると同時に高砂席後方の高いカーテンが両側へ開いて、夕空と遠方の街並みが見渡せる大きなガラス窓が現れ、そこに会場のシャンデリアが反射します。そして音楽はスピーチが始まるときまで自然に流れるようにします。


ケーキ入刀からケーキセレモニー
------「ヴェルディ 歌劇「アイ―ダ」より《エジプトとこの聖なる地を》」

 有名なメロディーが次々に繰り出される歌劇「アイーダ」、第二幕の第二場で流れるエジプトの凱旋の曲です。もともと私の奥さんがエジプト好きだという理由でこの曲を選んだのですが、クラシックを聴かない彼女はそれを知りません。ただ私はこの曲を式の前に繰り返し聴くうちに、このシーンにはこの曲しかないのではと思うようになりました。
三分十六秒ほどの曲は、開始から1分も経たないうちにいきなり壮大な合唱によるサビの部分が現れます。そのタイミングに合わせてケーキに入刀するのがポイントです。ただしそれまでの時間はたったの四十七秒しかなく、かなりの集中力をともないます。そこで曲が始まる前に、あらかじめ司会者から列席者に促がしてもらわなくてはならないことが二つあります。それはカメラの準備と、ケーキ前への集合を呼びかけることです。その準備が整ったら、曲を流す合図を送ります。
ヴェルディ古代エジプトを舞台とした歌劇の上演にあたり、壁画などを参考にしてこの場面にふさわしいトランペットを特注します。長さ一メートル二十センチのアイーダ・トランペットと呼ばれるそれを六人で演奏する勇壮なファンファーレが結婚式の披露宴会場にも響き、弦楽とファンファーレが幾度となく交互に掛け合ううちに、急激に雰囲気が高まっていきます。新郎新婦と会場スタッフの緊張はにわかに高まりますが、落ち着いて、にわかに曲が上昇を始めるのに息を同調させましょう。そしてこれらのすべてが絶妙にかみあうと、ケーキ入刀と同時に、合唱が高らかに栄光のテーマを歌い、列席者からのおびただしいフラッシュの閃光がナイフを持つ二人を輝かせるという、美しいシーンが演出されます。
歌詞はイタリア語なので、意味まで理解している人は少ないでしょうが、その歌詞にも、これからの夫婦にぴったりと思える意味があるように思えます。「この地を治める王に よろこびの賛歌をささげん」と歌った後に、「グローリア(栄光あれ)」の言葉が何度も繰り返されます。ひとしきり歌われると、曲は落ち着いて、女声合唱による穏やかで和やかなメロディーが流れ出します。歌詞は「月桂樹に蓮を編み、利者の髪に! 愛らしき花びらで彼らの腕をおおえ!」で、曲調はあたかも「家庭」を想起させます。続いて男性合唱が「勝利の至高の審判者に汝らのまなざしを上げよ。むくいる神に感謝を、この幸ある日に」と歌い、結婚生活における幾多の困難と、それに立ち向かう決意を連想させるのです。
こうして選曲一つにも趣向を凝らすことで、私たちの理解が及ばないものにもそれなりの意味がある、というのをさりげなく表しているわけです。


中座
------「グリーグ 《ホルベルク組曲》より前奏曲

 いつのまにか第一部も終わりにさしかかり、衣装直しの時間となります。司会にうながされて新郎新婦が立ち上がるときに、躍動感のある弦楽合奏がいきいきとした、この前奏曲が流れ、二人は退席します。弦楽だけで奏される二分五十六秒くらいの小品ですが、ノーベル賞の授賞式などでも演奏され、気品と優雅さをあわせ持った名曲です。ピアノのみで演奏されることもあるものの、結婚式では弦楽合奏版のほうがよりしっくりくると思われます。この曲の持つワクワク感が、第一部を終えたときに列席者のみなさんに、同時に第二部への期待をも抱かせるように感じられるからです。
 新郎新婦は手をとりながらゆっくりと退場します。曲は三分ほどで終了するので、中途半端なところでフェードアウトさせず、できるだけ最後まで流すようにしましょう。ただ退場するのに時間がかかりすぎて、最初に音楽が終わってしまってはいけないので、そこはある程度タイミングをはからなくてはいけません。また階段を上り、途中で止まって、列席者のみなさんを振り返り、シャッターチャンスをつくる時間もあったほうがよいでしょう。
音楽は、二人の姿が見えなくなっても少しのあいだ流れ続け、列席者のみなさんにはその余韻をあじわってもらいます。


結びの乾杯から花火
------「ストラヴィンスキー バレエ組曲火の鳥》より終曲」

 第二部が終わり、いよいよ披露宴そのものが終わりに近づきつつあります。前にもお話したように、この後で列席者全員にチャペル前の中庭へ出てもらい、最後の乾杯をします。中庭には、私の奥さんの希望で披露宴後半からのジャズ・ボーカルが低く流れています。その音楽は夜の雰囲気になかなか合ってはいますが、しかしこの後に起こるスペクタキュラーな演出には、それを盛り上げるクラシックの、それなりの曲を選ばなくてはなりません。列席者のみなさんが各々シャンパングラスを手にとっているのを、新郎新婦は遠くチャペルの扉の陰から見ています。
 二人は誰もいないチャペルで、その時が来るのを待ちます。一枚の扉を隔てて、教会式で花嫁の介添えをした二人の女性が立ち、目立たなくつけた無線のインカムから、列席者全員が中庭へ入ったという指示を待っています。そして介添えの二人が扉を軽くノックして合図すると、チャペルの重い扉が両側からスタッフによって開かれ、それぞれシャンパングラスを手にした新郎新婦が階段の最上部に現れます。
そのとき中庭に、ホルンの音が流れ始めます。やがて弦楽が同じ旋律を奏で、それを管楽器が引継ぎ、ついにオーケストラの全奏となり、《火の鳥》の終曲のテーマが姿を現します。新郎新婦は曲の呼吸に合わせながら、ゆっくりと階段を降ります。もっとも、私の奥さんはこの曲をよく知らないので、ただ私に付いてきているだけでしたが。
この曲の開始からクライマックスまでの時間は約一分四十九秒。ですから階段の中ごろにたどり着くのが一分四十秒前後、新郎が乾杯の合図をするのが一分四十五秒過ぎになるのが理想です。そして一分四十七秒で列席者のみなさんが乾杯することができれば、グラスを傾けるくらいのタイミングで、《火の鳥》のクライマックスの有名な曲が響きわたり、それと同時に花火が打ちあがります。曲の所要時間は三分二十二秒くらいなので、打ち上げから一分三十秒ほどで終わるように指示すると、時間差で曲の終わりの部分だけが、残響のように会場に漂い、つよく印象に残ります。
子どもの頃から、好きで何度も聴いてきた曲は、耳をふさいでも聴こえるものです。乾杯をするときまで、私はとてもリラックスしていました。秒数などはすでに頭になく、立ちどまりたいところで立ちどまり、乾杯したいところで乾杯したとき、クライマックスのメロディーとともに夜空で花火が爆発していました。打ちあがっている最中は、花火の轟音で音楽はほとんど聴こえません。そしてやっと花火が終わってから、曲の壮大なエンディングが、真っ白い煙のなかから浮かび上がっていました。

 


第十二章 名曲から自分へのメッセージを読み解く

 本書も最後の章となりますが、みなさんのなかに以前よりもクラシックに親しみを持てた人、より好きになれた人、そしてクラシックでしあわせになるための気づきを得られた人がいたら、著者としてうれしいかぎりです。本章では、そんな人が少なからずいると想定して、クラシックでしあわせになるための総仕上げとして、では好きになったクラシックから、いかにして大切な気づきやメッセージを汲みとっていったらよいかを、次にあげる交響曲を聴くときの私を例にあげてお話してみたいと思います。

全曲を通してたった一打のシンバルの謎
------ドヴォルザーク交響曲第9番 新世界より」 

おそらく世界でもっとも有名なクラシックの名曲には、また大きな謎もあります。ドヴォルザーク交響曲第9番 新世界より」は、第1楽章から第4楽章まで、トータル四十五分ほどの曲ですが、多くの人に親しまれている第4楽章のあるところで、全曲を通してたった一度だけシンバルが打ち鳴らされます。しかもその音はメゾフォルテ、つまり「ちょっと強く」という微妙なもので、聴きなれていないと鳴ったかどうかもわかりません。「ジャーン!」という強打ではなく、「チャ―ン」と控えめに打つ、というより擦り合わせるために、私もかつてレコードやCDで聴いていたときに、聴き逃してしまうこともありました。
さらに作曲者のドヴォルザークはシンバル奏者に、そのたった一打を「ちょっと強く、音は七拍分伸ばす」と細かく指示しています。これがシンバル奏者にとってかなり難しいらしく、演奏会の数ほどシンバルの叩き方が違うと思えることからも、シンバル奏者は作曲家の無理難題になんとか対応しようとしているのが感じられます。
作曲者自身がこのシンバルの意味について名言した資料は、いまのところないようです。交響曲の最初から最後まで通して、なぜシンバルが一度きりなのか、しかもその音が中途半端とも思える強さなのには、どんな謎が隠されているのでしょうか。


待つことの意味

作曲者が、そこにシンバルがほしいと思ったから書いたという意見もあるかもしれません。ただじっさいに演奏会へ行くと、この控えめなシンバルの一打に、何かとても重要な意味があると思えるのです。そうして意味を考えることは、私たちのクラシックの聴きかたをより豊かにし、作品への理解をいっそう深めるのに役立ちます。
交響曲が始まるときから、シンバル奏者はオーケストラの一員として、ステージ上で椅子に座ったまま、交響曲の終盤に訪れるたった一度の出番に備えて、ひたすら待ち続けます。交響曲の演奏でもっとも目立つのはやはり指揮者でしょうが、私はこの曲を聴くとき、指揮者と同じくらいに、ほとんど出番がないシンバル奏者へも目をやります。もちろん出番が来るまで、彼は何もしていませんので、何もしていない彼を見ているのです。
 音楽の解釈は自由です。聴く人の数ほど解釈があり、解釈もその時々で変わっていくというのが、奥深いクラシックの魅力なのです。私は音楽学者ではありませんし、他に私のような解釈をしている人を知らないため、あえて無知を承知でお話するのですが、このシンバルの意味について、作曲者の生涯などと重ねて私がさまざまな想念をめぐらすなかで、まずわかりやすいところで、待つことの意味を考えます。ふだんの日常や人生において、誰にでも待たなくてはいけない局面というのは否応なく訪れます。作曲者自身にとっても、この世紀を越えた名曲をアメリカ滞在中にうみだすまで、最初の交響曲から数えて三十年もの時間を待つことになるわけです。
さらにシンバル奏者の動きに着目すると、私にはなんとなく待つのと、そうでない待ちかたがあって、この交響曲は、後者の待ちかたを教えてくれているのではないかと思えるのです。


演奏せずに演奏に参加する

なんとなく待つのではない待ちかたとは、いったいどんな待ちかたでしょう。演奏会によっては、ずっと椅子に座って待機しているシンバル奏者が、第3楽章になるとすっと立ち上がって、トライアングルを打ち鳴らして、また元に戻るシーンが見られますが、たいていはやがて訪れる最大の見せ場まで、彼はただひたすら待ち続けるのです。
この交響曲でのシンバルのように、オーケストラの演奏では、出番に備えてずっと待機するというのはよくあります。そしてその出番が限られるほど、演奏されたときの劇的な効果は計り知れません。当然、作曲者もその効果を知っていますから、あえてそれを行うからには、限られた出番というものに、何らかの深い意味を与えようとしていたのかもしれません。
 演奏が難しいだけでなく、たった一打だからこそ、シンバル奏者の役割はそれだけ大きくなり、この交響曲の演奏の良し悪しはすべてこの一打にかかっているといえます。一発勝負ですから、失敗は許されません。しかも後世まで残る名曲には、一音たりとも無駄な音符が使われていないため、この一音がないだけでこの交響曲は未完成に終わります。かつて世界的指揮者が、このシンバルを打ちそこなった打楽器奏者に殺意をおぼえたというエピソードがあるくらい、この曲を真に理解する人にとってはとくに重要視するパートとなります。
 出番のきっかけを逃してはいけませんから、たいていシンバル奏者は楽章の最初から、他のパートの楽譜を見ながら出番に備えます。第3楽章が終わると、いよいよ第4楽章の到来を告げる、動き出す蒸気機関にも似た重厚な序奏が鳴動し、序奏が加速する中からホルンとトランペットが勇壮な主題を響かせます。ひとしきり主題が歌われると、やがて作曲者が見た他民族国家、アメリカの躍動を表すような目まぐるしい経過部が訪れます。そして交響曲が始まってから三十五分が経過する頃、シンバル奏者はおもむろに椅子から立ち上がります。そして曲調がふと我に返ったように静まった後、「チャーン」というシンバルの音が微かに響きわたるのです。その響きは控えめながらも孤高の存在感をもって、曲全体を支配するようです。するとその響きは、クラリネットとフルートが奏でる、故郷を強烈に思い馳せるような哀愁の旋律を導くのです。
 シンバル奏者は待っているあいだも、ただ待っているわけではなく、いわば演奏せずに演奏に参加しているわけです。


誰一人として欠けてよい人はいない

 そしてもう一つ、私がこのシンバルに思うのは、誰一人として欠けてよい人はいないということです。どんな役割であっても、全員がいて初めて調和のとれたシンフォニーが生まれます。シンバル奏者は、けっして目立った存在ではありません。ともすれば聴きのがし、見のがしてしまう存在です。しかしその存在に気づいたとき、私たちは彼の、一瞬ではあるけれども、そのなかで最大限に発揮される個性に耳を傾けるのです。
 日々の生活で、私たちは数えきれないほど多くの人々に支えられています。目立った存在の人もいれば、こちらがよほど注意していないと気づかないような人もたくさんいます。ドヴォルザークはこの交響曲を、遠く故郷を離れた新世界、アメリカでの三年間の滞在中に作曲しましたが、さまざまな人種、たくさんの個性が集まって一つの社会をつくるアメリカのような国でこそ、この曲が生まれたといえます。そしてともするとこのシンバルの一音は、異国の地から遠い故郷、ボヘミアへ思いを馳せる作曲家、ドヴォルザーク自身なのかもしれない、私はそんなふうに想像します。


いま すぐ ここでしあわせになる
------ベートーヴェン交響曲第9番 合唱付き」 

 はじめ私は、本書でこの曲についてふれる予定はありませんでした。人類の傑作とも称されるこのシンフォニーは、今更私のごときがどうこういえるものではなく、ただ聴くだけで多くの人が興奮し、心躍り、平安な気持ちになり、そして歓びに酔いしれる曲です。
 ところが、この交響曲にそもそも意味があるのかという人や、そもそもこの交響曲を知らない人々に会うたびに、そんな人々にかぎってもれなく、生きる意味や目的、しあわせを探し続けていたりするのを見るにつれ、私はたまらない気持ちになるのです。なぜならこの交響曲は、私たちが生きる意味や目的、しあわせになる答えをはっきり示している、稀有な作品だからです。つまりこの交響曲の意味を考えて聴くのと、ただ聴くのとの違いは、一時の興奮や安らぎではない、ほんとうのしあわせを見つけられる人と、見つけられない人との境界そのものだといっても過言ではないのです。
 ひとたび本書を書き終えて、タイトルを見て、全体の風景を眺めてみたときに、頂上だと思った山の頂から、雲を透かしてさらなる尾根が、もっと高い峰へ続いている影を見るように、この本のテーマをもっとも雄弁に語っている交響曲を、やはり取り上げないわけにはいかないという気持ちになりました。
 この交響曲の意味を理解する人々は少なくありません。そしてその解釈は以前からある程度決まっていて、人によってその解釈がぶれることもほとんどありません。私の解釈もそれにならっていて、三十年ほどほとんど変化はなく、だからこそこれからどう変わっていくのかが楽しみでもあるのですが、ここまで普遍的な真理を言いあらわしていると思える作品の解釈は、そう変わるものではないでしょう。


生きることは「戦い」でしょうか?

 第1楽章。ふと人生とは、こんなものではないかという音で幕をあけます。その音はしだいに大きさを増し、オーケストラの全奏によって力強く響き渡ります。それは「奮闘」のモティーフで、戦いによって人生をきり拓こうとする闘志として描かれます。まるで若き日に、「運命」の標題で知られる第5交響曲を記した作曲者が、その手記に「運命の喉首をつかんでやる!」と書き付けたのを思い起こさせる、挑戦的な主題です。曲調は勇壮、果敢で、決然たる闘志を剥き出しにしながら進行していきます。音符はあたかも「たたかって」、「たたかって」、「たたかって」、「たたかって」…、と連呼するようにも聴こえます。楽章の後半、ふたたび冒頭のテーマが回想され、さらに戦い続けようとするも、曲は行き場のない絶望的な苦しみ、もだえるような悩ましい経過を辿り、勇ましくはあっても、どこか悲壮感を漂わせたまま、楽章は締めくくられます。


生きることは「快楽」でしょうか?

いきなり唐突な音で第2楽章は始まります。躍動感あふれる舞曲が始まり、前の楽章とは人が変わったように、「もう、やってらんねー」と踊り狂っているようです。「狂乱」のモティーフが始まります。曲は急速度で展開し、楽しければよいといった、苦しみとは無縁の享楽があります。しかしこの楽章はそれだけのものでしかなく、長くは続きません。作曲者から与えられた時間は、一時間二十分あまりの交響曲のたった一〇分にしかなりません。狂乱は、間もなく終わります。


生きることは「安らぎ」でしょうか?

 第1楽章、第2楽章で現れたのと同じ主題、テーマが、もっとも安らかに変奏され、ゆっくりと第3楽章が幕をあけます。「安らぎ」のモティーフです。つまりこの交響曲は、一人の人間の人生を表しているのです。その若き日に奮闘を経験し、あるときは狂乱へと走り、老境にさしかかって初めて安らぎを得たかのようです。天国とはこんなところではないかと、思い馳せます。
 この交響曲が何を物語っているかを考えないで聴くと、この楽章はやがて訪れる有名な第4楽章の前の、つかのまの休息といった、世にもつまらない解釈で終わってしまいます。じっさいに演奏会場で、そんな聴きかたをする人は、そのあまりにも美しすぎる旋律に、一様にしあわせそうに目を閉じ、やがて寝息を立て始めるでしょう。
しかし輝かしい光にも似た調べのなかで、多くの人が無知に呆け、惰眠をむさぼるなか、作曲者だけは、ふと自分の人生とは、最後に神の祝福や、永遠の天国を待ち望むだけのものだったのだろうかという想念に、つきあたっているのです。そして楽園のなかで、つかのま雲が光を妨げるような不安なシーンを経過して、楽章は諦めのように静かに終わります。


歓べ! もっと歓べ!

 ではどうしたらよいのだ! といったように、管楽器が混乱の度合いを深めながらも律動的な調べを奏でます。それに対して、チェロとコントラバスが重々しく、「そんな音ではない」と無伴奏の旋律を奏で、冷酷に否定します。前者は問いで、後者は答えです。対話は繰り返されるうちに、「それなら奮闘か」と、第1楽章のはじめの部分が現れます。それは戦いによって人生をきり拓こうとする闘志であり、挑戦的な主題でした。しかしそれはまたチェロとコントラバス無伴奏の旋律によって否定されます。「それなら狂乱か」と、第2楽章のはじめの部分が現れます。それは唐突な、熱狂的な乱舞でしたが、これもすぐにチェロとコントラバス無伴奏の旋律によって否定されます。「それなら」と、第3楽章の主題が現れます。優しい調べ。安らぎ、あこがれ。しかしこれもたちまち否定されてしまいます。「そんな音ではない」と。
 ここで管楽器がはじめて、もっとも単純で素朴な旋律を奏でます。奮闘でも、狂乱でも、安らぎでもない、「歓喜」の主題です。またしてもチェロとコントラバス無伴奏はそれを否定しようとしますが、今度はどうしても否定できません。否定できないばかりか、やがて情けなくもその主題を弱弱しく歌い始めるはめになります。ついに「歓喜」の前に屈服するのです。


「第九」をもっとも感動的に聴くには

 後の展開はここに書くまでもありません。「歓喜」の主題はにわかに力を得て大きくなり、ついには全合奏の強奏となって、ゆるぎないものとなり、さらに4人の独唱者と混声合唱団まで加わり、一個人を越えた、生きとし生けるもの、すべてへの慈しみが壮大に歌われるのです。
 いまを生きていることに感謝し、歓びを汲みとり、歓びを感じることは、奮闘も、享楽も、安らぎをも越えて、いま、ここで、しあわせになれる唯一の方法です。それを音楽的に、こうならざるをえない、この他にどんな音が考えられるだろうという必然性をもって証明してみせたのが、この偉大な交響曲なのです。
 この「第九」を年末に聴くときにお勧めの聴きかたがあります。ラジオやCDからの音楽に耳を傾けながら、またステージ上のオーケストラを眺めながら、第1楽章では、その一年であなたがもっとも頑張った日々と、ご自身のその姿を思い浮かべてください。そして第2楽章ではあなたがもっとも楽しいと感じたり、思わずはじけてしまったような出来事を、第3楽章ではもっとも安らぎを感じたり、天国のようなものを身近に感じた出来事を思い浮かべるのです。すると一年の出来事が、ものすごいスピードで、走馬灯のようにかけめぐります。そして最後の楽章では、「歓喜」の主題とともに、あなたがいまこの人類の傑作を世紀を越えて耳にしていること、生きていること、すべてのものへの感謝と慈しみをあじわい、歓びをかみしめてください。
 クラシックがほんとうに好きな人は誰しも、そんな聴きかたをしているものです。


自身の体験を音楽で綴る
------「マーラー 交響曲第一番 巨人」

苦悩や挫折からの立ち直りかたについて、音楽はときに文学などよりもはるかに雄弁にその方法を教えてくれます。
グスタフ・マーラーは二十八歳のときに最初の第一交響曲を書き上げますが、私はこの一時間にも及ぶ交響曲を聴くたびに、若き主人公が苦悩や挫折を経て、やがて立ち上がっていくまでの「心の軌跡」が描かれていると思えてなりません。
「巨人」という標題は、作曲者が愛読していた同時代の作家ジャン・パウルの小説からとられていて、小説では主人公が恋愛や多くの人生経験をかさねて成長していく過程が描かれています。後にマーラーはこの交響曲から「巨人」という標題を削除しています。その理由として、友人への手紙で、標題はあくまで一般の人がわかりやすいように付けたとし、小説よりも自身の体験が作曲の動機であると告白しています。彼はこの交響曲を二十四歳から四年がかりで作曲しましたが、当時はかけだしの指揮者として窮乏をきわめるなか、自分のやりたいことができずに不満を募らせたり、尊敬する人への弟子入りが認められず、それがもとで当時の上司でもある宮廷歌劇場の首席指揮者と衝突したり、ソプラノ歌手との失恋、さらには健康状態も芳しくなく手術を受けたりと、波乱の時期を送っています。

 


音楽はすべてを語る

かりに作曲者のそんな境遇を知らずにこの交響曲を聴いても、音楽はすべてを語ります。とりわけ全楽章の三分の一にあたる二十分以上もの時間を費やす最終楽章は、まるで「もう、イヤだー!」と絶叫するかのようなシンバルの強烈な一撃と、金管の咆哮、ティンパニの連打、バスドラムの鳴動で始まります。そしてここから、いよいよ戦いに挑むのにも似た勇壮な第一主題が管楽器で奏され、ヴァイオリンが目まぐるしく上下する音型を伴います。しばらくのあいだ感情の嵐が吹き荒れ、管楽器と弦楽器が入り乱れると、歩みがゆっくりしたものとなります。落ち着きと静けさを取り戻すなかで、ヴァイオリンによる世にも甘美な旋律が第二主題となって朗々と歌い上げられます。
やがてふたたび金管が第一主題を奏でると、弦楽器によって戦闘的な第一主題が再現し、それを管楽器が引き継ぎながらしだいに高揚していきます。そして、ここで勝ち誇ったようなファンファーレが響きわたります。しかしその響きは、いわば巨人がひとたび立ち上がろうとするもののバランスを崩し、かろうじてとどまるかのような、きわめて不安定なものに聴こえるのです。そして曲はゆっくりと、暗く長い瞑想を想起させるシーンに入っていきます。交響曲の初めの第一楽章の旋律や、最終楽章の甘美な第二主題の旋律などが回想のように再現されて、曲は希望と絶望、明暗のはざまを行き来し、あてどもなく彷徨い続けます。
するとあるとき、弦楽器のヴィオラが警告的な動機を示します。かつて耳にしたことのない緊張感のある動機で、主人公が何かに気づいたかに思えるシーンです。緊張感のある動機は幾度となく繰り返されるうちに、ふたたび巨人が頭をもたげ、身を起こそうとするかのように、やっと第一主題が姿を現します。そして以前と同じようにファンファーレが鳴ると、ここでついにしっかりとした、ゆるぎない響きをもつ頂点へと達し、音楽によって描き出された巨人がようやく立ち上がるのです。ここで作曲者は楽譜のなかで、7人のホルン奏者をも一斉に立ち上がらせ、最強奏で演奏するよう指定しています。
そして交響曲のクライマックスは勝利の凱歌となって、輝かしいフィナーレのうちに壮大に締めくくられます。


音楽とともに生きる

この交響曲の最後で、苦悩や挫折からの立ち直りを象徴させるような、調和のとれたクライマックスを導いたのは、いったい何だったのでしょうか。交響曲の主人公が、何かに気づいたとしたら、それは何なのでしょうか。それを私は、十代の頃からずっと捜し続けています。おもしろいのは、こうではないかという想像が、私がおかれている状況、時代との関わりなど、その時々によって微妙に変わり続けていることです。
十代の私の音楽を聴きかた、感じかた、解釈のしかた、また四〇歳を過ぎた現在の聴きかた、感じかた、解釈のしかたは、まったく違います。十代の私がこの交響曲に見ていたのは、一人の熱血的な青年が二十代に入って自己に目ざめ、世のなかに歩み出てゆく様子を描いたものという、CDの解説書に記されたままの解釈でしかありませんでした。二十代になると、この交響曲を、音楽で物語を表現したものとして聴くようになります。マーラーからはかなり先の時代の、例えばベートーヴェンの作品にも聴かれる暗闇の先に見える光明、苦悩の先にある歓喜、そんなものを言っているのではないかと。三十代になると、この交響曲の構造がおぼろげにもわかってはきましたが、苦悩や挫折を経験しても、あきらめなければ道は開ける、そんなやや単純ともいえる構図をもってしかこの交響曲を聴けませんでした。


クラシックでしあわせになる

そして四十代になった現在の私は、かつてのどの私もしなかったような聴きかた、感じかた、解釈のしかたでこの交響曲を聴き、楽しみ、しあわせを感じます。マーラーがこの交響曲の最後で何を言おうとしていたのかを、作曲者の人間としての生きかたを意識しながら聴くと、自ずと答えが見えてくるようです。それは自らがほんとうに目ざすもの、人生をかけてでも見つけなければならないもの、いわば使命のようなものへの気づきなのではないかと思えます。作曲者の年譜と見比べてみても、この交響曲から、彼ははじめて大作曲家グスタフ・マーラーとなり、それからは人類史上に残る傑出した交響曲を次々にうみだしていくことになります。
もちろん作曲家のほんとうの意図は誰にもわかりませんし、芸術の解釈に正解も不正解もありません。けれども一つだけ確かなのは、私が現在の考えに辿り着くのに、クラシックを聞き続けた三十年もの経験と時間が必要だったということです。
もっとも、もし私が六十歳、さらに八十歳まで生きていられたとして、その時にこの交響曲を聴いたら、まったく違うことを考えるかもしれません。これこそが、クラシックと音楽のもつほんとうの意味での深さであり、すばらしさでもあるのです。


おわりに

 クラシックを聴いて、やがて好きになると、聴くたびにその時々の楽しかった記憶があざやかに思い起こされます。楽しかったときを思いだすことは、自分がほんとうに好きなもの、けっしてあきずに取り組めるもの、自分にとっての原点を思い出すことでもあります。
日々の忙しさのなかで自分を見失いそうになるとき、迷ってしまうとき、ふと棚からクラシックのCDを取り出したり、演奏会へ出かけて、かつて好きで聴いていた曲を耳にすれば、自分が若いときに目指していた夢や、生涯をかけたいと思っていた仕事、自分がほんとうにやりたかったことに、もういちど気づくことができます。それに気づくことができて、少しでも変わろうとすれば、たとえ現在の境遇がかつて夢見ていたものとは違っていても、自分の知らないところで、自分が想像もつかないような手続きがとられ、おのずとしあわせを感じる理想に近づいていけるでしょう。
 遠い時代、遠い国で生まれたクラシックを、現代の私たちは耳にし、楽しみ、感動をおぼえることができます。年齢や国籍、性別をとわず、地球上のあらゆる人々とその歓びを共有できるのです。本書でそれを読んでこられたみなさんのまわりには、いまだにクラシックの魅力について、よく知らない人が大勢いると思います。そんな人たちに、本書のエピソードの一つでも伝えていただき、ともにクラシックを楽しめるきっかけになればさいわいです。